62.記憶の欠落
銀座の午後は昼のくせに夜の支度が早く、通りに面した硝子はどれも薄く青を噛み、磨かれた石畳には乾いた反射だけが残っていた。信号機の電子音、搬入車のバック音、香水、排気、焦げたエスプレッソの匂い。それらが層になって漂う歩道の真ん中で、私は自分がどうやってここへ来たのか分からないまま立っていた。
腕時計は十三時を回っており、午前だけが綺麗に記憶から抜け落ちていた。思い出そうとすると頭の奥に濡れた紙を押し込まれるみたいな鈍い濁りが広がり、喉の渇きと足裏の疲労だけが時間が過ぎたことを教えてくる。何かをしていた気配だけは残っているのにその中心だけが白く飛んでいて、そこへ踏み込もうと皮膚の裏側を掻かれるみたいに不快だった。
「朱音」
顔を上げると、ウェイトがいた。相変わらず機嫌よく笑っていて、そのくせどこを見ているのか分からない。銀座の舗道に立っているのに彼のまわりだけ空気の温度が一定で、風にも街の流れにも乱されていないように見えた。
「……何が起きたの?」
「何って……銀座でこうやって僕と一緒にいるんだよ」
「それは見れば分かる」
「なら安心。認識機能は保たれているね」
冗談めいた口調に私は笑えなかった。彼の声を聞いた瞬間、水の底から急に肺だけ引き戻されたような嫌な感覚があり、眠っていたのでも気絶していたのでもなくここへ今更戻されたみたいだった。呼び戻された、という感覚だけが妙にはっきり残っている。
「……私、何してたの?」
「少し休んでいたよ」
「……立ったまま?」
「形式にこだわるのは、あまり良い癖じゃないね」
そう言ってウェイトは私の袖口を軽く整えた。触れられた場所だけ現実に戻る。反射で退こうとすると、彼はそれを見越していたみたいに自然に距離を外し、追い詰めずただ困惑だけをこちらへ置いていく。そのやり方がうまい。優しいのとも違い、乱暴ではないの方が近かった。
「今日は買い物をしようと思ってね」
「……買い物?」
「君に必要なものだ。魔術師にふさわしい服を」
「……服?」
「ローブだよ」
一等地の銀座でローブを買う。冗談にしては質感がありすぎて、会社員も観光客もタクシーも全部まともに動いているのに彼の言葉だけが場違いなまま沈まない。むしろ街の方が、何食わぬ顔でそれを受け入れそうな顔をしているのが嫌だった。
「嫌なら帰る?」
「……帰れるならね」
「帰れるとも。ただ、その前に見た方がいい。君は気に入ってくれると思うよ」
そう言って彼は歩き出し、私は半歩遅れてついていった。逃げても問い詰めても、彼は同じ温度で笑う。その予感があるのに、ついていくこと自体は嫌ではない。厄介だと思う。分からない男に、分からないまま歩幅を合わせている自分の方が。
案内されたのは表通りから外れた細い路地で、高級店の裏口と古い雑居ビルの境目みたいな場所に、艶のない黒い扉があった。看板はなく、真鍮の数字と読めない文字列だけが刻まれている。
「ここ?」
「そう。魔術師御用達の店」
軽い調子でそう言って、ウェイトが扉を押し開ける。鈴は鳴らず、代わりに頭の奥で布を裂くような小さな音がした。中は外より暗く、香と獣と古本の糊が混ざった匂いがする。空気はわずかに重く、店内に一歩入っただけで銀座の音が一枚薄くなるのが分かった。
「いらっしゃいませ」
声の方を見て、私は足を止めた。
人型の身体に山羊の顔が乗っている。角はゆるく後方へ流れ、黒い瞳孔は横に長い。それでも着ているのはきちんとしたベストとシャツで、胸元には銀の名札まである。白い手袋の手を接客用に重ねて立つ姿勢があまりに整っていて、余計に現実味がなかった。
思わず一歩下がると、床板がギィ、と鳴った。
「驚かせてしまいましたかな」
「大丈夫。彼女はまだ慣れていないだけだよ」
「でしたら、軽い仕立てのものからご覧になりますか」
会話が成立していることの方が怖かった。私だけが驚いていて、他は全部予定どおりに進んでいる。そういう置いていかれ方は苦手だった。
店の奥にはローブが並んでいた。黒、紺、灰、深緑、ワイン色。舞台衣装に見えるのに、近づくと縫製は実用品の硬さを持っている。袖口には小さな留め具が隠れ、裏地だけが妙に鮮やかなものもあった。ウェイトが深紅の一着を持ち上げる。表は光を吸うのに、裏地だけが夜更けの水みたいに鈍く光った。
「君にはそのくらいがいい。まだ全部を着なくていいから」
「全部って何……?」
「そのうち分かるよ」
彼は布越しに別の場所を見るみたいな顔で笑い、そのまま売り物の説明というには少し遠い声音で続ける。
「僕はね、ここではない場所から来たんだ。別の国というよりもっと遠い。君たちの言葉なら、星かな」
「星……?」
「そこでは衣服は防寒でも装飾でもなく、意志の輪郭を保つ器だった。身体は時々、思ったより曖昧だから」
さらりとした言い方だったが語尾にだけわずかな遅れがあり、座るべきではない場所へ平然と座ってきた気配が混じる。彼は鍵より先に隙間を見つける類の存在なのだと思った。それでも、その声を聞いていると完全に拒む気にはなれない。危ういのに整っていて、嘘をつく時まで妙に静かだからだ。
「君を最初に見た時も、少し似ていると思ったよ」
「何が?」
「壊れ方が綺麗だった」
「それは……褒め言葉のつもり?」
「もちろん」
「……酷い人」
「知ってる」
そのやり取りに、少しだけ息が抜けた。腹は立つ。けれど腹が立つことと、嫌いであることは一致しない。ウェイトにはそういうずれ方ばかりさせられる。
山羊の店員が採寸を始める。首、肩、腕、腰。数字が読み上げられるたび、店の奥で紙を捲る音がした。見えない場所で帳簿だけが勝手に記録しているようで気味が悪い。角の根元からは獣じみた油の匂いがわずかにして、その下に糊の利いたシャツの清潔さがある。その食い合わせの悪さが店の空気そのものみたいだった。
「少し痩せたかい?」
「知らない。そういうのは覚えてないから」
「そうだったね」
気遣うような口調なのに、彼の相槌には溺れる感じがない。理解することと同情することは別だと、こういう時にはっきりする。ウェイトは知るのがうまい。けれど知ったものと一緒に沈まない。
試着室は薄い幕で仕切られた祈祷室みたいだった。真紅の布、真鍮の輪、鏡の縁に埋め込まれた細い灯り。私はそこでローブを着る。布は見た目より重く、裏地は妙に滑った。腕を通した瞬間、身体の線が少し曖昧になり、普段着の輪郭が消えて、代わりに役割だけが前へ出る。
鏡を見る。深紅は黒ほど断定的ではないのに、逃がし方を知らない色だった。刺繍は目立たず、銀糸だけが呼吸に合わせてかすかに揺れる。似合うかどうかより先に、最初からこの形で立つ予定だったみたいで気持ち悪い。だが、その気持ち悪さは完全な拒絶ではない。合ってしまっているからこその不快さだった。
「……着たよ」
「なら見せてごらん」
「その言い方、なんか嫌……」
「じゃあ、確認させて」
幕を開けると、ウェイトは一歩引いた場所で私を見た。笑顔のまま、視線だけが妙に真面目で、服を見ているというより、服を着たことでこちらに起きた微細な変化を拾っている目だった。
「うん。よく似合っているよ」
山羊の店員が裾と袖を整える。手袋越しの動きは丁寧で、生々しさがないぶん余計に不気味だった。人間なら生まれるはずのためらいが、最初から省かれている感じがする。
ウェイトが私の前へ立つ。首元の合わせを指先で直された。……距離が近い。彼の周りには、濡れた金属と冷えた石みたいな匂いがあった。落ち着くという言い方は違うが、覚えてしまう匂いだった。
「似合うね」
「さっきも聞いた」
「大事なことは繰り返すべきだから」
喉まで何かが上がってきたが、それが怒りなのか戸惑いなのか分からない。おそらく両方で、もう少し別のものも混ざっている。彼はその混ざり方ごと見ているくせに、知らない顔で笑うから質が悪かった。
「デートはこういうのじゃなきゃね」
不意に、ウェイトが言った。
「……えっ?」
「銀座で買い物をして、服を選んで、君は僕と一緒にいる。十分それらしいだろう?」
「全然質問の答えになってない」
「君が知らなくていいことまで、律儀に説明するほど僕は親切じゃない」
冗談なのか本気なのか、その境目だけが綺麗に曖昧にされた。
*
私服は黒い袋に包まれ、私はローブのまま店を出た。外の光が琥珀色を一瞬で押し流し、排気と香水と春先の風がまとめて皮膚へ戻ってくる。その瞬間、空の色が少し低くなっていることに気づいた。硝子の反射は昼の白さを失いかけ、ビルの谷間には青というより金属に近い影が沈み始めている。腕時計を見ると、針は十七時を回っていた。
「……待って」
「どうかしたかい?」
「どうかしたかい、じゃないでしょ……」
そう言いながら、私はもう一度文字盤を見た。さっきまで十三時だったはずなのに短針は容赦なく先へ進んでおり、店の中で過ごした時間の感触とどう考えても噛み合わない。長くいた覚えはある。けれど四時間もいたとは思えないし、そう思えないこと自体が不自然だった。
「今日は……時間がおかしい」
「そうかな?」
「さっきは十三時だったよ?」
「今は十七時を少し過ぎているね」
「見れば分かるよ。そういう意味じゃなくて」
ウェイトは私の言葉の尖りを受け流すように、自然な顔で私の隣へ並び直した。並ぶというより寄る、の方が近い。肩が触れるほどではないが、放っておくとそのうち触れそうな距離を何でもないものとして保っている。
「何が起きているの?」
「誰かが願ったからだよ」
「……は?」
「時間なんて、そういうことで少し形を変える」
あまりにも軽く言うので、私は返す言葉を失った。答えになっているようで、まるでなっていない。はぐらかされているのは分かるのに、その一言が妙に綺麗に耳へ残ってしまうのが腹立たしい。
「誰かって誰?」
「さぁね」
「またそれ?」
平然としている。しかも言いながら、彼はいつの間にか私の手から黒い袋を取っていた。あまりに自然だったので、一瞬何をされたのか分からなかった。抗議するより先に、彼は何でもない顔でそれを自分の手へ提げ替えている。
「これくらい持てるよ」
「今日は僕が持つよ。朱音には優しくしないと」
「……紳士ぶってる?」
「年上だからね」
「そういうところだけ都合いい」
「そういうところも含めて、だよ」
私は少しだけ横目で彼を見る。夢で見るよりちゃんとかっこいいと思った。それがまず腹立たしい。もっと曖昧でもっと観念じみたものだと思っていたのに、実際に隣を歩くと、背丈も、指の長さも、笑う時に少しだけ細くなる目元も、いちいち現実の輪郭を持っている。なのに、現実味だけが薄い。綺麗に描かれたものをそのまま街へ立たせたみたいだった。
「……どうしたの?」
「別に」
「僕の顔を見ていたじゃないか」
「歩いてるだけだよ」
「そういうことにしておこうか」
からかう声が近い。いつの間にか、彼の指先が私のローブの袖口へ軽く触れていた。皺を払うみたいな、確認するみたいな、小さすぎて文句にしづらい触れ方だった。
「……さっきからやたら触るね」
「似合うものは確かめたくなるだろう?」
「そういうものなの……?」
「分からなくてもいいよ。僕が満足しているから」
交差点に差しかかる。信号は赤で人が溜まっている。スマホを掲げる女の子、腕時計を見る男、飴の包みを剥がせない子供。どこにでもある夕方の断片の中で、私だけが少しずれている。昼だったはずの街が気づけば仕事帰りの顔へ寄り始めていて、その移り変わりの継ぎ目を私はまるごと見落とした。
信号が青に変わり、人の波が横断歩道へ流れ込む。私も遅れて足を出した。その瞬間に、ウェイトの手が一度だけ私の背へ触れる。押すほどでもなく導くほどでもなく、ただそこにいると知らせるためだけの軽い熱だった。
振り払う理由はなかった。ローブの裾がふくらはぎに触れ、夕方の風がその下へ入り込む。十七時を過ぎた銀座の人波に紛れて歩き出しながら、私は自分のではなくなりかけた歩幅をその熱の隣で一つだけ合わせた。




