61.定義の破断
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転移の余波がまだ床に薄く残っている。
部屋に踏み込んだ瞬間、空気の密度がわずかに削られていると分かった。僕が幾重にも重ねていた結界は外から侵食された形ではなく内側から押し広げられるように破断しており、術式の線は焼き切れた糸のように床へ散っている。焦げた魔力の匂いがかすかに漂い、目に見えない圧力だけがこの空間に残されている。強度が足りなかったわけではない。前提そのものが否定されている。
右手には杖がある。見せる用だと笑っていたそれを、今日は最初から握っていた。先端の幾何学結晶が淡く光を宿し、中心に埋め込まれた正方形の符号が僕の意志に応じて静かに明滅している。その光は脈打たない。ただ在る。これは武器ではない。世界に線を引き、問い直し、定義を刻むためのペンだ。今日はその線が一歩遅れた。
床にムートが倒れている。
左前足がない。肩口から抉り飛ばされた断面が露出し、骨の白が不自然なほど鮮明に覗いている。腹は深く裂かれ皮膚が左右に開き、赤黒い内部が湿った光を帯びていた。
それでも目は生きていた。僕を見て低く唸る。その声は威嚇というより、生存の報告に近い。
部屋の壁には引き裂かれた結界の残骸が走っている。空間の縁がわずかに歪み、光が直線にならずに揺れている。窓辺のカーテンが微かに震え、外の音が不自然に遠い。
背後でノクティスの呼吸が乱れる。「僕が……もっと守る術、重ねておけば……」という言葉が崩れながら漏れる。彼の頭の中では、いくつものもしもが同時に走っているのだろう。感応だけでなく防御を重ねていれば、層を厚くしていれば、事前に僕へ報告していればという後悔が、処理能力を超えている。
「通訳が泣いてどうする」
声を落とし、杖の石突きを床へ打ちつける。乾いた音が響き、散った魔力の残滓が幾何学的な秩序に従って整列する。断裂した術式の断面が浮かび上がり、破断の形が明確になる。よりによって左か、と僕は呟く。レイが死んだとき、残っていたのは左腕だけだった。その記憶が胸の奥で冷たい形をとる。選択の悪意か、あるいは象徴か。
ムートが掠れた声を上げる。ノクティスが震える指で感応を開き、断片的な情報を拾い上げる。「……指輪……はめたら……ちがう……朱音じゃない……」「結界……一瞬で……割った……」「どこか……いった……場所は、わからない……」という報告が、途切れ途切れに届く。
やはり、と思う。思考が追いつく前に結論だけが落ちる。
僕は膝をつき、杖をムートへ向ける。結晶が静かに回転し、光が幾何学的な紋様を描きながら裂けた腹部の上に重なる。肉を縫合するのではなく、揺らいだ存在の定義を固定する作業だ。空間そのものに線を引き、ここに在ると宣言する。左前足は戻らない。戻せるだけの術式はあるが、今は時間をかけられない。核を守ることが最優先だ。
呼吸がわずかに整う。内部の共鳴は細いが切れていない。僕の中とムートの核が、かすかに重なっている。
「補助に回れ。意識を落とすな」
ノクティスは涙を拭う余裕もないまま術式を重ねる。自分を嫌っていても、役割があれば動ける。その一点だけは信用できる。彼の術式は揺れているが、崩れてはいない。ムートは弱々しく鳴き、意識の糸を繋ぎ続けている。
――指輪。内側から破られた結界。朱音ではない何か。
一手遅れたという認識が胸の奥に沈む。焦りは表に出さない。計算だけが進む。止血を安定させ、封印を三重に重ね、外部からの干渉を遮断する層を整える。これ以上の損耗は許さない。
「立てるか」と問うが、無理だと分かっている。小さく首が揺れる。
僕はムートを抱き上げる。抱えた瞬間、わずかな震えが腕に伝わった。
壊れてはいない。だが、安堵に使える時間はどこにもなかった。
転移座標を描く指が、自分でも分かるほど速い。
余白を削る。誤差を削る。迂回を捨てる。必要な線だけを残して最短距離へ圧縮すると、空間が薄く悲鳴を上げ、裂け目から冷たい気流が頬を打った。
監察局の医療区画に着地すると、無機質な光が視界を満たす。白い壁、消毒薬の匂い、整然と並んだ器具。その中央の処置台にムートを置く。
「ベリタスを呼べ」
ノクティスが走り出す。足音が硬い床に反響する。
最後の固定を施し、魂の流出を封じたうえでノクティスの肩を掴む。
「絶対に死守しろ。僕が戻るまで、ここから動かすな。何があってもだ」
「……守ります」という震えた声を聞き、僕は頷かずに杖を握る。結晶がわずかに強く光った気がした。




