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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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60/70

60.均衡の終端

※猫を虐待するシーンがあります

*


 ――床に広がった血は、既に冷え始めていた。


 どれほどの時間が経過したのかは分からない。秒針の音は確かに存在していたはずだが、それを連続したものとして認識する主体がもはや表層には存在していなかった。

 先程までこの身体を占有していたはずの意識――朱音として定義されていた人格は、()()()()()()()()()。眠りではない。気絶でもない。そこに恐怖も拒絶も存在しない。ただ、器としての機能だけが維持されている。


 ムートが、床に横たわっていた。


 黒い毛並みは血に濡れ、艶を失っていた。左後脚は関節の構造を無視して折れ曲がり、骨が皮膚の内側から不自然な膨らみを作っている。

 腹部は深く裂けていた。本来ならば守られているはずの柔らかな下腹が無残に開かれ、その内側に収められていた組織が露出している。断裂した肉の断面は赤黒く湿り、血液はゆっくりと床へ広がりながら粘度を増していた。

 呼吸は浅く不規則だったが、それでも止まらない。瞳孔は開いたまま焦点を失っていない。敵を視認し続けている。


 ……死んでいない。


『どういう仕組だ? これでも死なぬとは』


 朱音の口が動く。

 だが、その声音は彼女のものではなかった。古い響きを持ち、硬質で温度のない声だった。


 ムートが、唸る。


 損壊した肺から空気を押し出すたびに、喉の奥で血泡が震える。それでもなお威嚇をやめない。その小さな身体のどこに残されているのか分からないほど希薄な生命が、確かな敵意だけを維持していた。


 朱音の身体が一歩だけ近づく。


 床に広がった血液を踏む。足の裏に湿った感触が伝わるが、それに対する反応はない。視線はただ、目の前の構造だけを観察している。


『未完成の構造にしては、随分と往生際が悪い』


 ムートの前脚が動く。

 威嚇ではない。距離を掴もうとしている。損壊した身体を引きずりながら、それでもなお距離を詰めようとする。


 その瞬間、右手がゆっくりと持ち上がる。意思が肉体へ遅れて到達したかのように、迷いも力みもなく。

 指輪を嵌めた中指が空間の一点を指し示す。その動作は触れるためのものではなかった。ただ位置を指定する。それだけで十分だった。ルビーの内部で光がわずかに沈む。


 次いで、指先が内側へ折れる。弾いたわけではない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 現実が一瞬だけ遅れる。

 次の瞬間、ムートの左前脚が消失していた。


 切断ではない。破壊でもない。そこに存在していたはずの構造そのものが、最初からなかったかのように排除されている。血液だけが遅れて噴き出し、失われた部位の存在を証明する。


 ムートが悲鳴を上げる。細く引き裂かれたような音。それでも死なない。

 呼吸は続いている。瞳は閉じない。敵意だけが未だに維持されている。


『……なるほど』


 朱音の身体がわずかに首を傾ける。

 理解は部分的に成立している。()()()()()()()()()()()()。損壊は成立しているにもかかわらず、死亡という帰結だけが意図的に拒絶されている。構造のどこかに消滅を保留するための外部的な支点が存在している。

 しかし、その支点の位置までは観測できない。目の前の器そのものに固定されているわけではない。より外側――別の定義と接続されたまま維持されている。


『不完全な器のくせに、妙な繋がり方をしている』


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ……それ以上を検証する価値はなかった。


 朱音の身体はそれを一瞥する。

 そして、静かに告げた。


『お前と遊んでいる暇はない』


 背後で血の匂いとかすかな呼吸音だけが、まだ続いていた。


*


「――朱音の真名は」


 その音を言葉へ変換する直前だった。

 円卓の中心に集束していた意識の流れが、不意に別の方向へ引き裂かれる。

 ハディートの内部で何かが軋んだ。


 痛みではない。だが、それに極めて近い警告だった。自らの内部に意図的に分離し、外部へ接続しておいた微小な断片――ムートへ繋いだ魂の欠片が、明確な圧迫を受けている。損壊に類する負荷。単なる外傷ではない。構造そのものに対して定義の外側から干渉されている兆候。

 思考はそれを解釈する必要すらなかった。


 ――ムートが危機的な状態だ。

 そう感じ取ったのとほぼ同時にノクティスが小さく呟く。


「……あっ」


 彼の肩がわずかに跳ね、視線が虚空へ固定されている。その焦点はこの場には存在していない。観測は別の座標へ向けられていた。


「……ムートが……」


 かすれた声が零れる。

 北西のガルザが、露骨に顔を顰める。


「おい、こんなタイミングで声出すなよ。ここをどこだと思ってる」


 しかし、ノクティスは反応しない。


「ムートが……ムートが……」


 繰り返すだけだった。言葉は意味を形成していない。ただ、観測の結果だけが断片的に漏れている。

 ハディートの視線がゆっくりと彼へ向けられる。


「……お前がなぜそれを感知できる」


 問いは簡潔だった。だが、それは単なる疑問ではない。干渉経路の特定だった。()()()()()が接続している断片とは別に同一対象へ到達している観測者が存在するという事実は、それ自体が構造の異常を意味する。


 ノクティスの肩が縮こまる。視線を床へ落としたまま、言葉だけが早口で溢れ出る。


「だ、だって……その……ハディートが……いつムートを虐めるか分からないから……危機を感じた時に分かるように……ちょっとした魔術を……」


 語尾が消える。

 ガルザが呆れたように息を吐く。


「お前な……今は猫の心配してる場合じゃねぇだろ」


 しかしハディートの内部では別の結論が成立していた。

 ムートは死なない。()()()()()()()()()()()()()

 ……今感じ取っているのは単なる損壊ではない。存在そのものを排除しようとする干渉だ。定義へ直接触れている。外部からの侵入ではなく、内部からの書き換えに近い。

 今あそこにいる干渉者は、一人しか存在しない。


 朱音。

 正確には――


 そこまで思考が到達した時点で行動は決定していた。

 勢いよく立ち上がると、椅子がわずかに軋みその音が円卓の静止を破る。この逸脱が会議の破綻ではなく、より優先度の高い事象への介入であることをこの場の全員が理解していた。


 ハディートはノクティスを見る。


「来い。通訳だ」


 命令だった。

 ノクティスがびくびくしながら顔を上げる。


「え……?」


 次の瞬間、空間が折り畳まれる。

 転移のための陣は展開されない。座標は特定されている。ムートへ接続された断片が、干渉の発生点を正確に示している。距離という概念は意味を持たない。

 ノクティスの身体も強制的にその接続へ巻き込まれる。


「ちょっ――待っ――」


 言葉は最後まで発せられることなく断絶し、二人の存在は円卓の空間から完全に消失した。残されたのは空間の均衡がわずかに崩れた痕跡と、そこに確かに何かが存在していたという事実だけだった。

 メイザースはその空白を追わず静かに観測していた。何が起きたのかではなく、何が起き始めたのかを確認するために。

 そして、隣に立つリガルディーへ視線を向ける。


()()を止めるぞ」


 短く告げる。

 リガルディーは問いを挟まなかった。一度だけ頷き残された円卓の中心へと向き直ると、その場の指揮権を引き受けるように静かに立った。

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