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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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58.名前のない異常

 目を覚ましたとき、最初に違和感を覚えたのは視界ではなく気配だった。

 枕元に小さな箱が置かれている。


 見慣れないはずなのにこれといった驚きはなかった。

 理由は分かっている。夢の中で見たからだ。黒でも白でもない、光を吸い込むような質感のリングケース。

 ゆっくりと蓋を開けてみると、中には金の指輪が収められていた。中央に据えられた深紅のルビー。夢の中でウェイトから渡されたものと全く同じだった。光に透かしてみると、石の奥に濃淡が揺れている。均一ではないのに破綻がない。完成している形だった。


 ……夢の続きが、現実に滲み出てきている。


 しばらく眺めてから、言われた通り右手の中指にはめてみた。

 抵抗はなかった。引っかかることもなく、自然に収まる。ぴったりだった。


 そのことに少し遅れて驚いた。同時に、微かな違和感があった。痛みではない。ただ、指輪が指に触れている以上の感覚がある。皮膚の奥で、何かが静かに繋がったようなそんな曖昧な感触だった。


 指輪をはめたまま部屋を出て階段を下りた。

 リビングでは、リガルディーがすでに外套を羽織っていた。符の位置を確かめ、出かける準備を終えている。


「朱音さん、おはようございます」


 いつもと変わらない声で言う。


「……監察局に行ってくるね。少し時間がかかると思いますが」


 その言葉を聞いて、胸の奥が静かに沈んだ。

 ――夢の通りだ。

 ウェイトは言っていた。次はリガルディーが呼ばれると。


「……分かりました」


 それだけ答える。驚きは表に出なかった。


 足元で小さな声がした。

 ムートがリガルディーを見上げている。不安そうに短く鳴く。


「大丈夫だよ」


 リガルディーはしゃがみ込み、頭を撫でてあげた。ムートはもう一度鳴いた後、諦めたように目を細めた。

 リガルディーが転送符を起動する。


「すぐ戻るから、待ってて」


 空間がわずかに歪み、彼の姿が消えた。


*


 リガルディーがいなくなった後、家の中は急に広くなったように感じられた。誰かがいるときには意識しなかった小さな生活音が全て途絶え、空間だけが静かに残されている。

 私はキッチンへ行き棚からコーンフレークの箱を取り出して器に流し込み、牛乳を注いだ。乾いた粒が沈みながら、ぱちぱちと微かな音を立てる。


 椅子に座り、スプーンで一口掬って口に運ぶ。味はいつもと同じはずなのに、なぜか実感が薄く、食べているという行為だけが表面を滑っていくような感覚があった。


 足元で、小さな声がした。


 ムートがこちらを見上げてうにゃ、と短く鳴いている。その声は甘えるときのものと似ているが、どこか落ち着かず確認するような響きを含んでいた。


「どうしたの?」


 もう一度鳴く。要求しているのは明らかだったので、私は立ち上がり棚からカリカリの袋を取り出して器に入れ、テーブルに置いた。


「はいムート、ごはんだよ」


 ムートは器の前まで飛んできて匂いを嗅いだ。しかし、それ以上は何もしなかった。いつもならすぐに食べ始めるのに、今日は顔を近づけたまま動かない。器と私の間で、何度も視線を往復させている。


「……食べないの?」


 そっと手を伸ばすと、その瞬間ムートは弾かれたように椅子から飛び降り後退した。距離を取り、身体を低くしてこちらを見る。その目には明らかな警戒があった。低い声で唸り声を上げている。


「え……?」


 思わず手を止める。ムートに威嚇されたことなどこれまで一度もなかった。


「……体調悪いの?」


 スマートフォンを取り出し、猫の威嚇や食欲不振について検索する。いくつかの記事が表示されるが、どれも決定的な理由には思えなかった。

 ……そもそもこれは猫なのだろうか、と遅れて疑問が浮かぶ。ハディートが作った存在であり生きているのは確かだが、その基準がどこまで人間の知る生物と一致しているのか私は知らない。


「ムート」


 名前を呼ぶと反応はした。けれど近づこうとはせず、むしろさらに一歩後ろへ下がり、再び威嚇する。その向きは明確だった。私ではなく、()()()()()()。見慣れないものを付けているから怖がっているのかもしれない。


「大丈夫だよ。ただの指輪だよ」


 右手を伸ばして一歩近づいてみる。

 その瞬間、ムートの身体が沈み、後ろ足に力が溜まるのが見えた。飛びかかってくると理解したが、距離が近すぎて避けきれないと直感する。爪が指輪に向かって伸びてくるのが、やけにゆっくりと見えた。



『煩いな』



 声が出た。

 自分の声だったが、自分の意思ではなかった。低く、冷たく、感情のない音だった。その響きに、自分自身が最も驚く。

 そして、ムートの爪が指輪に触れようとした時、乾いた破裂音が室内に響いた。



*


 朋友楼の厨房は、開店前から火の気に満ちていた。寸胴鍋の縁から立ちのぼる湯気が白く揺れ、刻まれた野菜の匂いと油の熱が空気を満たしている。祖父は黙々と仕込みを続け、レイもまた包丁を握り、一定のリズムでまな板に刃を落としていた。


 ――その手が、不意に止まる。


 刃先が空中で静止したままわずかに震える。

 何かが触れた。皮膚ではない。もっと深い場所――骨の奥、血の流れの中を直接なぞられたような、不快な感覚。


 危機を感じ、反射的にレイの瞳孔が細く縦に裂ける。

 首筋に鱗が浮き上がり、背骨に沿って硬質な隆起が走る。指先の爪が伸び、背後で尾が床を低く擦った。抑える前に変化が先に表へ出ていた。


「おい」


 祖父の声が飛ぶ。


「厨房で姿を変えないでくれって毎回言っているだろう」


 呆れたような、それでいて慣れきった声音だった。何度も繰り返してきた注意。だがレイは、まるで聞こえていないかのように入口の扉を見つめている。

 尾がゆっくりと揺れ、喉の奥で低く唸る。


「レイ」


 祖父がもう一度呼ぶ。今度はわずかに強い言いぶりで。


「……おかしい」


 レイが答えた。声は低く、完全に人のものではない響きを帯びている。


「何がだ」

「歪んでいる」

「……歪んでる?」


 祖父は手を止めたが、その意味までは理解していない。ただ異常を感じていることだけは分かっていた。


「流れが……違う」


 レイはゆっくりと首を動かす。扉、壁、床、空間そのものを探るように。


「親父も帰ってこないし、ヤバいことが起きているな」


 祖父は眉をひそめる。


「また大げさなことを言う」

「違う」


 即座に否定する。


「これは……」


 言葉が途切れる。先ほどの感覚がもう一度蘇る。

 ――触れられた。

 攻撃ではない。侵入でもない。もっと弱く不完全で、それでも確かに意思を持った接触。助けを求めるような、縋るような、不安定な波。


「俺の魂に触れてきたやつがいる」


 祖父は困ったように顔をしかめる。


「何を言っているんだお前は」

「分からん」


 レイ自身にも説明はできなかった。ただ、そこにあったという事実だけが残っている。


「知らない。だが――」


 喉が低く鳴る。


「助けを求めていた」


 その言葉に、自分でもわずかに戸惑う。なぜそう分かるのか理屈では説明できない。血の奥に残った感触がそれを伝えていた。

 祖父は腕を組み、しばらく黙って孫を見る。


「気のせいじゃないのか」


 魔術の理屈など知らない者の、率直な言葉だった。

 レイは答えない。

 尾が床を叩く。苛立ちではない。焦燥だった。

 知らない存在。だが、完全に無関係ではない。血のどこかに触れることを許した何か。偶然ではない接続。


「……誰だ」


 呟く。

 助けを求めてきた存在の正体は分からない。

 半人半龍の姿のまま、扉を睨み続ける。


 祖父はため息をついた。


「いいから元に戻れ。客が来る前にその姿をしまえ」


 日常の延長としての言葉だった。

 レイはしばらく動かなかったが、やがてゆっくりと変化を解いていく。鱗が沈み、尾が消え、瞳が元の形へ戻る。


 しかし、感覚だけは消えない。まだどこかで繋がっている。

 助けを求めてきた何かが、完全には途切れていない。


 包丁を握り直す。

 その刃先が、わずかに光を返した。

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