57.現実と夢幻の融合
*
夜は裂けなかった
裂けたのは空気 光 そして意味だった
黒焔が地を走るたび 街は息を止め
翼の盾が静かに重なって 破壊を外へ追いやる
名を持たぬ影は祈りを吐き
口だけの声は願いの形を真似る
けれど言葉は救いにならず
火は迷わず 落ちるべき場所へ落ちた
私は歩道の端で その全部を見ていた
英雄でも奇跡でもない
ただ 選び続ける背中があり
終わらせるための一撃があった
夜が元に戻るとき
胸の奥に残ったのは
恐怖ではなく 確信だった
*
例の事件から三日が過ぎた。
街は相変わらず平然としている。昼は人が流れ、夜になればネオンが灯る。何も起きていないかのような顔で世界はいつも通りに動いていた。
だが、私はもう知っている。その裏側で、同じ質量の異常が連続して起きていることを。
「各地で魍骸が出てる。しかも間を置かずに」
紅茶を口に運びながら、リガルディーが淡々と言う。
「偶然じゃない……よね」
「ないね。数も質も揃いすぎてる」
肩をすくめる仕草は軽いのに、目だけが冷えていた。状況を把握している者の視線だ。
あの夜以来、ハディートは店に立つ時間を除いてほとんど自室から出てこない。扉の向こうには確かに気配があるのに物音がしない。集中というより張り詰めている。怒りと焦燥を押し殺し、壊れないように固定している――そんな印象だった。
正直話しかけづらい。私も、リガルディーも。
「……監察局は?」
私が訊ねると、リガルディーは一瞬だけ間を置いた。
「表向きは沈黙。でも裏では動いてる。今回の頻度はさすがに無視できないからね」
それ以上は語られない。語られなくても分かる。誰かが踏み出さない限り、事態は停滞したままだ。
――その時。
階段を下りる足音がした。
ゆっくりで重い、迷いのない歩調。
振り向いた瞬間、息が詰まる。
……ハディートが立っていた。
顔色は変わらない。だが目の奥だけがいつもより深く沈んでいる。感情を削ぎ落とした後に残る、冷えた光。
「……監察局に行く」
短い一言。
空気が一段、落ちた。
「え……?」
間の抜けた声が、自分の喉から零れる。リガルディーも言葉を失っていた。
ハディートが自分から監察局へ行く。呼ばれても距離を保ち続けてきた相手だ。選ばないはずの行動だった。
「……本当?」
リガルディーが慎重に問いかける。
ハディートは答えない。ただ外套の留め具を直し、指先で符の位置を確かめる。
その仕草を見た瞬間、理解してしまった。
――私のことだ。
胸の奥が冷たくなる。
「……お話、するんですか」
問いというより確認だった。
ハディートは一瞬だけこちらを見る。その目には優しさも冷たさもない。ただ、決めた人間の色だけがあった。
次の瞬間、転送符が淡く光り、音もなく彼の姿は消えた。
「ハディート様が自分から行くってことは……」
リガルディーが珍しく言葉を濁す。
私は答えられず、二階へ続く階段を見上げる。
もう誰もいない場所。
嫌な予感がゆっくりと確信へ変わっていくのをただ受け止めるしかなかった。
*
その夜、ハディートは帰ってこなかった。
転送符の残り香だけが店の奥に薄く残っている。待つ理由も問い返す言葉も見つからないまま、私は眠りに落ちた。
――夢だと分かったのは、空気がやけに澄んでいたからだ。
中目黒の川沿い。水面は夜を映さず春だけを運んでいる。桜の木がすぐ隣にあり、花弁が静かに落ちた。
私は小さなカフェのテラス席に座って、膝の上で一冊の本を開いていた。キルケゴールの『不安の概念』。
頁を追うほどに、言葉が指からすり抜けていく。理解できないわけじゃない。でも、分かったと思った瞬間に別の意味が顔を出す。
――分かるようで、分からない。
行間に目を落とす。
書いてあるのは哲学なのに、どこか魔術の理屈に似ていた。
結果ではなく条件。出来事ではなく、起こりうるという状態。
ページをめくる指が少しだけ止まる。
難しいなぁ……。
そう思った瞬間だった。
「隣、空いてるかな?」
男性の明るい声がした。
顔を上げると、そこにはウェイトが立っていた。相変わらず曖昧な輪郭で、でも確かに人の形をしている。夢の中なのに、彼は自然にそこにいた。
「……どうぞ」
彼は椅子を引き、軽く会釈して座る。川の流れとカップの音が重なる。
私は最近の出来事を話した。魍骸の発生、ハディートが張り詰めていること、監察局の気配。言葉にするほど胸の奥に溜まっていたものがほどけていく。
「……大変だね」
ウェイトはそう言って、少しだけ目を伏せた。
「……ウェイトは魔術師なんだよね。この状況どうにかできないの?」
私の問いに彼はすぐには答えなかった。川面を見て、それから私を見る。
「僕一人では難しいね。あんなに出てこられたら対処しきれないよ」
「じゃあ……」
「朱音と一緒なら……できるかもしれないけど」
冗談めいた言い方なのに妙に現実味があった。胸が少しだけ騒ぐ。
しばらく取り留めのない会話を挟んだ。桜が散るのが早すぎること、コーヒーが異様に苦いこと、本が難しすぎること。夢らしく時間は曖昧に流れていく。
私は、ふと思ったことを口にした。
「……ウェイトは、夢でしか会えないの?」
彼は困ったように笑う。
「現実で会いたいけど……邪魔する人がいるからね」
「邪魔?」
「うん。でも、今ならチャンスかも」
その言葉の意味を尋ねる前に風が強く吹いた。桜が一斉に舞い、視界が白く染まる。
ウェイトは風に揺れる花弁を指で受け止めるような仕草をして、それから私の方を見た。
「ねぇ、朱音」
名前を呼ばれるだけで、現実より近く感じる。
「明日、あの家から抜け出そう。リガルディーも監察局に呼ばれるからいないよ」
「……なんでリガルディーがいなくなるって分かるの?」
「知ってるよ。ああいうのは連鎖するからね。ハディートが行ったなら次に呼ばれると決まってる」
川の流れが少し早くなる。
「――銀座に来てほしい」
場違いな地名が、夢の中で妙に鮮明に響いた。
「銀座……?」
「そう。あそこは監視の目が多いようで少ない。人が多すぎて逆に個が埋もれる場所だ。夜ならなおさら」
私は本を閉じる。『不安の概念』の表紙が、妙に重たく感じられた。
「不安ってさ」
ウェイトが続ける。
「何かが起こる前に生まれるだろう。起きてからじゃない。選べる状態にある時に一番強くなる」
「……キルケゴールみたいなこと言うね」
「今、君が読んでいたからさ」
くすりと笑う。その笑みの奥に、言葉にできない熱がある。
「現実で話そうか。朱音が知りたいことも、僕が言えないでいることも」
そう言ってから、ウェイトはわずかに視線を逸らした。
逃げた、というほど明確な動きではない。ただ、焦点が外れる。私ではなく、その向こう側――川の水面に映った光の揺らぎへと意識を移しただけのような、小さなずれ。けれどその一瞬で、彼の中に触れてはいけない層があることを理解してしまう。
川は何も知らない顔で流れていた。桜の花弁を運び、光を砕き、同じ場所に同じ形を残さない。ここが夢であることは分かっているのに、景色だけは現実よりも誠実だった。誤魔化さない。隠さない。ただ存在している。
「邪魔してくる人がいるって言ったでしょ。でも、その人たちも忙しい。監察局に引き寄せられてる」
その言葉は軽かった。事実を述べているだけの重さを持たない声。
だが、その中に含まれているものは明らかに軽くはなかった。
「……ハディートのこと?」
名前を出した瞬間、自分の中で何かが揺れた。
確信ではない。ただ、そこに繋がっているという予感だけが先に形になっていた。
ウェイトは否定しなかった。
ほんの少しだけ目を細める。その動きは、肯定とも回避とも取れる曖昧なものだった。
「そう。特にね」
その言い方が、胸の奥に引っかかった。
嫌っているように聞こえたわけじゃない。けれど、近づこうとしていない。交差しないように、あらかじめ線を引いているような響きだった。
私はしばらく言葉を探していた。
夢の中のはずなのに、喉の奥に重さがある。どうしてこんなことを気にしているのか、自分でもよく分からなかった。
「……ウェイトって、ハディートのこと嫌いなの?」
口にした瞬間、空気がわずかに止まった気がした。
川の音も風の流れも変わらないのに、言葉だけが浮いたまま落ちてこない。
ウェイトはすぐには答えなかった。
テーブルの上に落ちていた花弁を見つめ、その輪郭を指先でなぞる。触れているのに、触れていないような動き。壊さないようにしているのか、それとも壊れても構わないと思っているのか、そのどちらでもあるように見えた。
「嫌い、か」
小さく繰り返す。自分の中でその言葉の意味を確かめるみたいに。
その声には拒絶も敵意もなかった。むしろ逆で、遠い場所の名前を呼ぶような静かな響きだけが残っていた。
「……そう見えるかい?」
問い返されて、私はすぐに答えられなかった。
見える。そう言い切ってしまうには、彼の態度はあまりにも曖昧だった。けれど、近づこうとしていないのは確かだった。
「だって……会わないようにしてるみたいだから」
それは、ずっと感じていた違和感だった。
ウェイトはいつもハディートのいない時に現れる。名前を出すときも、触れないようにしているようなそんな慎重さがあった。
ウェイトは少しだけ笑った。
困っているようにも納得しているようにも見える、形の定まらない笑みだった。
「避けているのは、僕の方だけじゃないよ」
「……え?」
予想していなかった言葉だった。
「彼もまた、僕を見ないようにしている」
さらりと告げる。
その声音は特別な意味を持たせていないようでいて、逆に何も説明していなかった。
川面の光が揺れる。
その揺らぎを見つめながら、私は言葉の意味を追いかける。避けている。お互いに。どうして。何を守るために。
「どうして?」
問いは、ほとんど無意識に出ていた。
ウェイトはすぐには答えない。
視線を水面へと落とす。流れは変わらない。同じ方向へ進み続けている。止まることも、戻ることもない。
「近すぎると、形が保てなくなることがあるんだ」
静かな声だった。
「形?」
「うん」
彼はわずかに頷く。
「お互いにね」
それ以上の説明はなかった。
けれど、その言葉には確かな重さがあった。意味が分からないが嘘ではないと分かる。そういう種類の重さ。
「……敵ってわけじゃないの?」
今まで確認したかったのは多分それだけだった。
敵なら分かりやすい。嫌っているなら納得できる。けれど、今の彼の言葉はそのどちらにも当てはまらなかった。
ウェイトは少しだけ考えるふりをした。
実際に考えているのか、それとも答えを選んでいるのかは分からない。
「敵、というのは便利な言葉だ」
花弁を指先で弾く。
白い欠片は、抵抗もなくテーブルの上を滑った。
「そう呼んでしまえば理由が完成する」
彼はそこで一度、私を見る。
「安心できるだろう?」
その問いは優しかった。
けれど、同時にどこか遠かった。
「安心してしまうと、見えなくなるものがある」
その先は続かなかった。
続けようと思えば続けられるはずなのに、彼はあえて言葉を止めた。
沈黙が落ちる。
川は流れ続け、桜は落ち続ける。夢は何も急がない。
「だから、今は――」
彼は、わずかに肩をすくめた。
「会わない方が都合がいいだけだよ」
逃げているようで、逃げていない答えだった。
拒絶でも、肯定でもない。そこに線が引かれているという事実だけが残る。
「……ハディートは、ウェイトのこと知ってるのかな?」
その問いは、自分でも理由が分からなかった。
知っていてほしいと思っているのか、知らないでいてほしいと思っているのか。
ウェイトは、今度はすぐに答えた。
「さあ」
軽く笑う。
「どうだろうね」
その声は、何も明かさないまま、全てを含んでいるように聞こえた。
桜がまた強く舞った。
花弁が風に煽られウェイトの輪郭を覆い、ゆっくりと溶かしていく。
だが、溶けていく前に私に向けて手を差し出した。
「……これ」
掌の上に小さな箱があった。
黒でも白でもない金属の冷たい光だけが、夢の中でやけに現実的だった。
蓋が開く。
中には立派な造形の金の指輪があった。
中央に大きなルビーが一つ。真紅。火のようで血のようで、どちらとも言えない色。磨かれすぎていないのに内側から光を溜めている。
「ノーヒートルビー……。1ct超えのピジョンブラッドはそう手に入らない一品だよ。家から出る間に右中指に着けてきて」
お願いというより指定だった。
「……どうして?」
「着けてみたらきっと意味が分かるよ」
ウェイトはそう言って指輪を私の指先にそっと乗せる。
「必ずそれを忘れないで」
桜が全てを覆い隠す。
「じゃあ、夢で会うのはここまでにしようか」
声が遠のく。
「次は……ちゃんと現実で」
川の音が遠のき桜は闇に溶けていく。
それでも私は目を覚まさなかった。
夢はまだ終わっていない。そんな感覚だけが、静かに残っていた。




