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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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56.未確定の一行

 部屋に戻ってから僕は一度も外へ出ていない。

 転送の残響はすでに消え、結界の維持音だけが低く部屋の底に沈んでいる。机の上には書きかけの脚本があり、白い紙の上に並んだ黒い文字はどれも迷いなく配置されていた。僕は椅子に深く腰を預けたまま指先でペンを回し、まだ存在していない一行の位置を探している。


 本来、僕はこういう人間ではない。期限という概念を軽視しているわけではないが、それに従属することを良しとしてこなかった。いつも本番の直前になってから書き上げる。締切とは圧力でしかなく、創作とは必要に応じて発生する現象に近い。

 だが今回は違う。猶予は残されているにもかかわらず、すでに取りかかっている。それも断片的な着手ではなく、結末に至る構造そのものを意識しながら書き進めている。


 逃避――という言葉が最も近いのかもしれない。あるいは、均衡を保つための代替行為。思考が一つの対象に固定されることを防ぐための意図的な分散。


 脚本の内容は暗い。一つの願いを叶えるために全てを差し出した人間の話だ。彼は理解している。願いが叶えば、何かが失われるということを。それでもなお選択する。選択すること自体がその存在の証明となるからだ。願いは叶う。完璧な形で、歪みなく。

 だが叶った瞬間、その願いは意味を失う。守ろうとしたものはすでに壊れており、残されるのは叶えてしまったという事実のみ。


 彼は死なない。死ぬことすら許されず、ただ叶えてしまった者として生き続ける。望んだ世界の内部にいながら、望んだはずの幸福の外側に立ち続ける。到達したはずの地点が、最初から到達不能であったかのように。


 僕はそこで筆を止める。結末はまだ書いていない。だが結末など、本質的には最初から存在している。書くか、書かないかの違いしかない。


 視線を落としたまま、昨晩の光景が再浮上する。


*


 Ashveilのカウンター。朱音が店を離れてから、まだ時間はほとんど経過していない。

 イグナスはいつもの席に座り、グラスをわずかに傾けている。赤い液面が静かに揺れ、ガラスの内側をなぞるかすかな摩擦音だけが、この沈黙が偶然ではなく選択されたものであることを証明していた。


「監察局が動いている」


 唐突に、彼はそう言った。

 僕は反応しない。グラスを拭く手を止める理由はない。ただ、次に続く言葉を待つ。


「朱音を警戒している。このまま放置すれば、とんでもないことになると見ている」


 その名前だけで、空間の密度がわずかに変化する。だが僕の動作は変わらない。


「……監察局らしい判断だ」


 感情を排除したまま応答すると、イグナスはグラスを置いた。


「お前も理解しているはずだ。暴走した場合の帰結を。お前や――フランのように」



 ――フラン。その名は、忘却されることを拒否する性質を持っている。


 かつて南西を担っていた魔術師。皆を虜にする麗しい容姿のピアニスト。存在そのものが舞台装置として機能する人間だった。

 彼は願いを叶えた。妻子を奪った宿敵を殺すという願いを。そのために、コンサートホールごと燃やし尽くした。標的のみでは不足していた。そこに存在していた全てを巻き込み願いを成立させ、その帰結として自らも消失した。

 魔術師として、完全に完成していたが故の結末だった。



「……理解している。だが、朱音を殺すつもりはない」


 イグナスの視線が、わずかに鋭度を増す。


「なぜなら、制御が維持されている限り無差別な願いの実行は発生しない。それに――朱音は」


 言葉を選択する。


「魔術師として、明確な適性を有している」


 沈黙が落ちる。イグナスは何も言わない。ただ言葉を探しているように見えた。


「……だからこそだ。セラフがここまで干渉している。名を呼ばれ、完全なる器として完成した場合――」


 その先は言葉にする必要がない。

 ――欲望の器。理としての存在。個ではなく、機構としての完成。


「だとしても、殺さない」


 迷いは存在しない。存在しないと定義している。


*


 回想はそこで終了する。


 僕は机に向かい直し、再びペンを手に取る。書き続けるためではない。結末を確定させないために。未確定の状態を維持するために。


 その時――微細な音が結界の表面に触れた。


 カリ、と。


 続けて、カリカリ、と。


 侵入ではない。要求。外側からの接触。


「……ムートか」


 僕は結界を解除する。ドアがわずかに開き、黒い影が内部へ侵入する。ムートは迷うことなく僕の足元まで到達し、一度だけ視線を合わせた後、甘えた声を発しながら脚を登り始めた。爪は最低限しか使用していない。布地を損傷しないよう配慮された動作。


「……仕方がないな」


 僕はペンを置き、彼を持ち上げる。軽量。だが確かな体温を有している。抱き上げられた瞬間、満足したのか喉を鳴らし始めた。その振動は一定であり、外界の不確定性とは無関係に存在している。


「朱音が来てから全然僕に甘えてこなかったのに」


 ムートは応答しない。ただ振動を継続する。


「全く――自由な存在だな」


 僕はムートの頭部を撫でる。柔らかな毛並みの下に、骨格の存在を確認する。


「現実も、脚本同様に進行してくれればこれほど単純なことはないのだが」


 脚本は裏切らない。現実はすぐ裏切る。


「お前だったら……朱音を殺す決断を下せるか」


 ムートは嫌そうに短く鳴く。否定しているようだ。


「……そうだろうな。だが、お前の親父は違う。情という変数を排除している。常に合理性のみを基準として判断する。昔はまだ人間味があったのに、どうしてこうなったのやら」


 ムートが抗議するように長く何かしらの単語で区切りながら鳴いた。


「なんだ、僕への人格否定か。それとも親への評価に対する異議か」


 ムートはじっと見つめるだけで何も答えない。

 やがて彼は僕の膝から降り、部屋の外へと退出する。僕は制止しなかった。




 再びの静寂。

 僕は机の上の脚本を見る。

 結末は、まだ書かれていない。


 ――そして僕は、その一行を依然として与えていない。

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