55.面倒ごとの後始末
吉祥寺通りを離れると、街の雑音が少しずつ現実の輪郭を取り戻していく。
さっきまで撫でられていた不快なざらつきが薄れ、代わりに車のタイヤ音とどこかの店の換気扇の唸りが耳に戻った。
……にもかかわらず、胸の奥に残る余韻だけがしつこい。
ああいう言葉は刺さるように作られている。
隣でイグナスが歩く。ローブの裾が夜風に揺れて黒焔の気配はもう引いているのに、彼の背中はまだ戦闘の角度のままだ。
そういうところが昔から面倒だ。
角を曲がって、Ashveilの灯りが見えた。
……いや、灯りの手前にいる。歩道に二つ影がある。
朱音と――脚本の大魔術師。
……嫌な予感しかしない。
「お前ら。店にいろって言っただろう」
声を低く落とす。叱責というより確認に近い。
確認しないとこいつらは平気で誤った方向にズレる。
「す、すみません……。大魔術師がどうしてもって言うから」
朱音が小さく肩をすくめる。言い訳の形をしているが、目が「私だけのせいじゃない」で全てを語っていた。
大魔術師の顔を見る。
……デカい図体で、悪びれもせずむしろ面白がっている表情だった。
ため息が勝手に出た。
「はは。そう怒るなって。ほら、無事だったろ?」
笑いながら言う。笑い方が軽い。軽いのに、目だけがやけに観察者のそれで腹が立つ。
「無事だったのは僕が建物やら諸々を守ったからだ」
「だろ? だから褒めてやってんだ」
理屈が反射でねじ曲がる。
僕はもう一度ため息を飲み込み、視線だけで「店に戻れ」と朱音へ伝えたが、彼女はここに立ったままこちらを見続ける。
イグナスが一歩遅れて立ち止まり、朱音と大魔術師を見る。
彼は何も言わない。ただ、その沈黙が「余計な話はするな」と周囲を縛る。
大魔術師はその空気の束ね方を嗅ぎ取ったのか、肩を揺らして笑った。
「しかしさ、お前、召喚魔術の方法変わったな。前はもっと――神だの悪魔だの憑けて殴るやり方だったじゃないか」
言い方が最悪だ。間違ってはいないから余計に。
「それはそうだが……いろいろあってだな」
僕は無理矢理言葉を切る。
ここで「いろいろ」の中身を展開するほど空気は緩くない。隣にいる男の前で、昔の手口を語る趣味はない。
大魔術師は僕とイグナスを交互に見て、あからさまに「察した」顔をする。
「あー、まぁいい。……というかお前、脚本家なんだから脚本家らしく戦えよ」
「なんだその無茶振りは……」
「脚本で意のままに心操れるんだからさ。今度それっぽいことやってよ。ほら、敵が勝手に泣き出すとか、改心するとか」
「できなくはない……が」
口が勝手に認める。認めたくないのに。
ただし、こういうのは「効く相手」がいる。
「……ただ、今回の敵には通じない。奴らには感情がない」
大魔術師は「へえ」と短く返し、イグナスは肩を回しながら夜の通りの向こうを見た。
戦闘の筋肉をほどくような動作のくせに目だけはまだ鋭い。
僕は息を吐き意識を現実側へ戻す。
建物は無傷。汚染も地面に落としていない。……だが、それでも書かなくてはいけない書類は増える。
「イグナス」
名を呼ぶと、彼は顎だけこちらへ向けた。その角度が露骨に面倒を予告している。
「……始末書書いてくれない?」
空気が一段と冷えた。
イグナスの視線が真っ直ぐ刺さってくる。
――お前、何様だ。
そう言葉にしなくても分かる程度に露骨な表情だった。
「……俺に命令するのか」
低い声。怒鳴るわけでもないのに圧だけはある。
「命令じゃない、依頼だ。断る選択肢は薄いと思うぞ」
「薄いって言い方が気に食わん」
「僕が暴れなかったという証明はイグナスの筆致の方が通る」
僕は淡々と続ける。感情を混ぜると、イグナスは話の本筋より反発を選ぶ。
「僕がどれだけ綺麗に書いても来るのは詰問だ」
イグナスが一瞬だけ眉を動かす。理解した時の癖だ。
「イグナスが書けば監察局の突っ込みはほぼない。八方の中じゃ一番信頼されてるからな」
沈黙。彼の呼吸が一つ深くなる。
納得したのではない。ただ、反論の価値が薄いと判断しただけだ。
「……全く、面倒だな」
「そうだよ。面倒だ。だからイグナスに頼む」
「お前に頼まれる筋合いはない」
「ある」
即答する。押し通すべきところで引くと余計な火種が増える。
イグナスはしばらく僕を睨み、ふっと視線を逸らした。
「……分かった。書けばいいんだろ」
言い捨てるように言って、彼はそのまま頭を抱えた。
ローブの肩がわずかに上下して露骨に機嫌が悪い。
大魔術師が横で肩を揺らした。
「はははっ。いいねぇ、これだよこれ。こういうのが面白い」
『黙れ』
僕とイグナスが同時に言うと、大魔術師は余計に笑った。
朱音はそのやり取りを見て、何か言いたそうに口を開きかけて……結局閉じた。
店の灯りが近い。
僕は鍵に手をかけながらもう一度だけ釘を刺す。
「朱音……中に入れ。それから、今夜はもう呼び寄せるなよ」
ベルが鳴る前に、僕は一度だけ夜の通りを振り返った。
もう何もいないはずなのに、耳の奥の反響だけがまだ消えない――




