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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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54/54

54.共闘、黒焔と黄金の環の下で

*


 吉祥寺通りに出た瞬間、空気の密度が変わった。

 夜は落ちているはずなのに、魂の層だけがざらりと逆立っている。


「……二体か」


 視界の先で魍骸が二つ現実の継ぎ目に引っかかっていた。


 一体は、人体の関節だけを寄せ集めて無理やり獣の形にしたような影だ。

 肢にあたるものがアスファルトを擦り砕きながら進んでいるのに、削れたはずの破片はどこにも落ちない。

 むしろ擦るたび質量だけがじわじわと増している。


 もう一体は、人間の上半身を模していながら顔のパーツが全て口になっていた。

 笑っているのか泣いているのか判別できない、口だけの表情。

 声帯のない喉で空気を噛み潰すたび、周囲の光がわずかに沈み、街灯の照度が一段ずつ落ちていく。


 やがて、その口がばらばらに言葉のようなものを吐き始めた。


「…Akane… soârsìèr qui kass tout lé définißion…」

「…devien, devien… vazon d’ désir… vazon d’vou…」

「…mèr déz abominasion… clè de l’abyîme…」


 ……滅茶苦茶なフランス語だ。

 意味は分かる。()()()()()()()()()()()()()()()()()

 語順も比喩もよく出来たレトリックだ。だから余計に腹が立つ。


「……うるさいな」


 小さく吐き捨てて、耳の奥に干渉をかける。

 魍骸の声は、言葉の輪郭を失ってただの濁音に変わった。


「聞き取れたか?」


 横でイグナスが短く問う。


「くだらない自己模倣だよ。ありがちな祈り文句さ。価値はない」


 口ではそう切り捨てながら、内心では舌打ちをひとつ飲み込む。

 ――よくできているから始末が悪い。セラフの悪趣味は本当にブレないな。


「派手にやれば、あとで面倒が増えるんだがな」


 小さく息を吐き、指先を弾いた。

 空中に走らせた軌跡がそのまま光の線になって円環を組む。

 黄金色の環が閉じると同時に、内側の空間がすっと沈んだ。


「召喚魔術――ミカエル。防護を最優先だ」


 名を呼ぶと、環の中心に光の柱が降りる。

 鎧とも衣ともつかない構造体がゆっくりと形を取り、翼は攻撃ではなく防壁のように湾曲して通りを覆っていく。


『了解した』


 声というより意志の返答。

 見えない膜が空気の層をずらし、吉祥寺通り全体を包み込む。……簡易的な都市用シールドだ。


「これで少なくとも建物は守れる」


 しかし、問題は中身の方だ。


「はぁ……」


 隣から聞き慣れた深い溜息が落ちた。

 イグナスが、黒焔の揺らぎを背中にまとったまま二体の魍骸をじっと見ている。


「……嫌な構造してるな」

「同一の願いの二重残渣だろうね。普通ではありえない」

「ってことは――」

「セラフだ。遊んでる」


 イグナスの眉がわずかに動く。怒りというより理解した時の動きだ。

 こういう時の勘だけは本当に鋭い。


「アイツら、街を壊す気は今のところはなさそうだが? ずっと同じ言葉を喋り続けている」

「そうだな。だが、君が本気で暴れれば壊れるよ」

「……加減くらいできる」


 短く吐き捨てて、イグナスは一歩前に出た。

 黒焔が足元から低く立ち昇り、魍骸たちの顔が一斉にこちらを向く。


 龍の魂が静かにうねった。



 魍骸たちはこちらが構えたことを認識したのか、さらに激しく口を動かし始めた。


「…pâ noû tué… on vœ pa mor encor…」

「…Akane… protégé Akane… soârsìèr… vazon d’dézìr…」

「…on vœ just exzist… mèr déz abominasion… clè de l’abyîm…」


 最初に干渉をかけたはずの音が、ひずみを増しながら膜の隙間をすり抜けてくる。

 殺さないでくれとでも言いたいのだろう。願いを乞う声色だけは妙に人間臭い。


「……よくよく聞いてみたら、朱音のことについて何か言ってるな」


 イグナスが眉をひそめる。


「朱音と聞こえた。気のせいか?」

「……戯言だ。気にする価値はない」


 即答する。意味は分かっているが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。魍骸ごときが口にしていい言葉ではない。


「だったら――黙らせる」


 イグナスが一歩踏み込んだ。

 通りの中央には前衛のように関節だらけの獣が構え、そのすぐ背後に口だらけの上半身がぬめる影を引いて浮かんでいる。


 右足を半歩前に送り出し腰を落とす。空手の基本の踏み込みに、魔力の流れだけを上書きした動きだ。

 足を打ち込んだ瞬間、靴底とアスファルトの隙間から細長い紙片が一枚、ひらりと滲み出る。

 黄紙のような質感だけが現実に浮かび、表面に朱砂色の線が一息に走った。簡略化された「火」の字を崩したような符が描き上がる。


 符が燃える。音もなく黒焔に変わり、その炎が踏みしめた足から脊柱へ、そして振り下ろす右腕へと刃のように収束していく。


 ――符術《黒焔衝》。


 拳を叩きつけるのではない。

 足元で燃えた符が、「この動きの軌跡を刃と見なす」という式を組み上げる。

 その式に従って、腕の軌跡に沿って刻まれた線が前方へ走る斬撃として固定される符術だ。


 奔る黒焔の軌道の先に、後ろにいたはずの口だらけの魍骸がずるりと身を滑らせて割り込んでくる。

 全ての口が一斉に大きく開いた。


「…nô nô nô nô…」


 黒い液体が吐瀉物のように溢れ出した。

 どろりとしたそれは、噴水の逆再生のように空中へ巻き上がり飛翔する黒焔の衝撃波と正面からぶつかる。


 黒焔と黒い液体が触れた瞬間、空気がわずかに歪み焦げたような油の匂いがかすかに鼻先をかすめた。

 黒焔は液体の内部へ食い込もうとし、液体は逆にそれを包み込んで形を奪おうとする。

 どちらも完全には相手を呑み切れず、ねじれ合った光と影の塊になり、やがて力を打ち消し合って霧散した。


「……何っ」


 イグナスがわずかに目を見開き、一気に距離を取る。

 黒い滴がアスファルトに落ちるたびじわりと染み込んでいく。

 普通の水ではない。油とも違うもっと嫌な粘度だ。


 その少し後で、遅れて本当の臭いが風に乗ってやってきた。


「……っ」


 イグナスが顔をしかめる。

 焦げた脂と、焼けた何かが腐りかけたような胃の底を直接掴まれる匂い。

 ――僕は、この臭いを知っている。

 人間を焼くとき、皮膚の下から最初に溶け出す層の匂いだ。

 脂肪と筋肉の境目が崩れるときのあの不快なぬるい甘さ――


「何だあれは……」


 イグナスの声には露骨な忌避が滲んでいた。

 黒焔より先に嗅覚が拒否している。


「……当てつけか? 貴様ら」


 魍骸に向けてというより、その背後にいる創造主に向けて低く呟く。

 セラフの顔が脳裏をよぎる。

 ――皮脂と肉を溶かし、形にしたものを吐かせる。

 わざわざ僕が嗅ぎ覚えのある臭いに調整しているあたり、本当に分かりやすく嫌なやつだ。


「ハディート、あれは一体……」

「人間だよ。溶かした肉の一部だ」


 短く答えると、イグナスの目の色が変わる。

 怒りというより冷めきっていた。龍の魂が一段深く沈む。


「……そうか」


 それだけ言って彼はもう一度前に出た。

 今度はさっきよりも慎重に、しかし迷いはない。


 魍骸たちはまだ何かを喋っている。

 殺さないでくれ、願いを叶えろ、朱音、と。

 だからこそ意識しないようにしている。


 ――戯言だ。

 願いの形をしていても、これはただの残滓に過ぎない。


「イグナス」


 呼びかけると、彼は顎だけこちらへ向けた。黒焔の揺らぎがまだ前へ出る気配を残している。


「あの関節獣、さっきの一撃じゃほとんど削れてない。前に出るたびに口の方が盾になってる」

「見りゃ分かる」

「じゃあ役割分担だ。盾は俺が剥がす。お前は関節獣だけを叩け」


 指先で短く印を切る。

 口だらけの魍骸の足元に細い光の輪が幾重にも刻まれていく。動きそのものを凍らせる簡易拘束だ。


「――拘束陣。そこから一歩も出るな」


 輪がぱち、と音もなく閉じる。

 口だけの上半身が、まるで見えない杭で打ち付けられたみたいにその場から滑れなくなった。


『汚染制御を強化する』


 頭上でミカエルの声がする。

 黒い液体が吐き出されても地面には落ちない。斜め上へとねじ曲げられ、夜空へ薄く散らされていく。


「これで前は空いた。好きにやれ」

「最初からそうしてくれればな」


 イグナスが鼻を鳴らし一歩前に出る。

 黒焔が足元から立ち昇り、関節だらけの獣だけを真っ直ぐ捉えるように細く絞られていった。


「――符術《黒焔衝》」


 踏み込みと同時に、黒焔の斬撃が地を這うように走る。

 継ぎ接ぎの肢をまとめて薙ぎ払い、獣の魍骸の下半身を一気に崩した。

 ぐしゃり、と現実の骨ではあり得ない音を立てて影が潰れる。

 上半身だけになった獣がよろめき、支えを失って前のめりに倒れ込んだ。


「トドメだ」


 右足を半歩前に送り、腰を落とす。

 先ほどの《黒焔衝》よりもさらに重心が低い。突きではなく、「叩き落とす」軌道だ。


 イグナスは左手の指先で、自分の拳の甲を軽くなぞった。

 皮膚の下から、古い火傷の痕のような線がゆっくりと浮かび上がる。それは、何度も書き込み重ねられた中国符を骨ごと焼き付けたような簡略形だ。


「――符術《黒焔墜》」


 名を告げた瞬間、符の線が赤く点りすぐさま黒焔へと反転する。

 炎が背骨に沿って噴き上がり、握りしめた拳の周囲へと凝縮していった。

 それは炎でありながら、「落ちる」ことだけを過剰に与えられた重さの塊だ。


 イグナスは魍骸二体の重なり合う位置を正面に捉え、一気に踏み込むと拳を地面ごと叩き落とした。

 振り下ろされた軌道に沿って黒焔の柱が立ち上がり、二体の中心を下から上へと丸ごと撃ち抜く。

 黒焔が内部から膨張し、継ぎ接ぎの影と口だらけの上半身を区別なく焼き潰していく。


「…noû… noû vœ… Akane…」


 最後になり損ねた音が火の中でちぎれて消えた。

 黒い液体が本能的に噴き上がろうとした瞬間、ミカエルの盾がその上に蓋をする。


『汚染、上方へ誘導する』


 見えない蓋に弾かれ、飛沫はすべて真上へとはじき飛ばされた。

 夜空の高みに薄い煤の層を作り風に千切られていく。地上には一滴も落ちない。

 やがて、拘束陣の輪郭が役目を終えた糸のようにほどけた。

 中に残っていたはずの「何か」は、もうどこにも存在していない。


『防護完了。これ以上の介入は不要と判断する』

「了解。戻っていい」


 短く告げると、ミカエルの気配が静かに薄れていく。

 黄金色の環が弾けるように消え、吉祥寺通りにはいつもの街灯の光だけが戻った。


 イグナスが息を吐いて黒焔を払う。

 龍の魂が胸の奥に沈み、彼は軽く肩を回した。


「……しかし、お前と共闘なんていつ以来だ」


 イグナスがぼそりと言葉をこぼす。


「ノクティスに左足もがれかけたとき以来じゃないか?」

「あぁ……そんな事もあったな」


 ノクティスが初めて本格的に()()()()()踏み越えた夜のことを少しだけ思い出す。今さら掘り返すような話でもない。


「戻るか」

「……あぁ」


 イグナスが短く答える。

 魍骸が最後にこぼした単語が、耳の奥でまだ微かに反響していた。


 Akane.

 vase du désir.

 mère des abominations. clè de l’abyîme――

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