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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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52.無言の宣告

 翌日は妙な静けさで始まった。

 看板を表に出し、オープンの札をひっくり返した数分後だった。


 からん、と、いつもより大きくベルが鳴る。


「……早いね。開店と同時とは珍しい」


 鍵をかけ直すハディートの声が店内に落ちる。


「たまには一番乗りでもいいだろ」


 扉のところに立っていたのはイグナスだった。


 短く刈った黒髪に、深い藍色のローブ。胸元から裾にかけて目立たない糸で紋様が刺繍されている。普段のラフな格好とは違い布のラインも襟元もきちんと正されていて、「魔術師としての顔」をそのまま身にまとっているように見えた。


 レイと同じ骨格をそのまま時間で押しつぶしたような顔。目元と頬骨のラインがよく似ているのに、そこに刻まれた皺の分だけ目の奥の影が濃い。

 イグナスは中に入るとさっと店内を見回し、カウンターの内側にいる私と目が合った。


「……この前は店に来てくれてありがとな」

「あ、いえ……こちらこそ、ごちそうさまでした」


 朋友楼の熱気と、油と香辛料の匂いが一瞬よみがえる。火の前に立つイグナスの背中、その横で皿を運んでいたレイの横顔。


 イグナスは当たり前のように前回と同じ席に腰を下ろした。ローブの裾がカウンターの足元で静かに揺れる。


「イグナス、今日はどうする?」

「赤。ボトルで一本。そこそこいいやつ」


 赤、という言い方が、妙に短くて乾いていた。


「珍しい注文だね。君が開店と同時に来ること自体、珍しいけど」

「……今日は、そういう日なんだよ」


 そういう日。たったそれだけで、カウンターの空気が少しだけ重くなった気がした。

 ハディートは軽く息を吐き、ワインセラーの扉を開けた。数本のボトルのラベルを指でなぞり、一本を抜き出す。


「じゃあ、これにしようか。ボルドー、シャトー・グロリア2021」

「値段は?」

「ボトルで22,000円。安いときに仕入れているからね。まぁ、今日の君の顔を見る限り細かい計算はしないでおいた方が良さそうだが」

「……まだそういう話はいい」


 イグナスは、グラス越しではなく真っ直ぐハディートを見た。その一瞬だけ、ローブの影の奥から熱とも冷たさともつかない気配が滲んだ気がした。

 ぽん、とコルクが抜ける音がして、ふわりと香りがひろがる。カシスのような甘さと湿った土の匂い。


「朱音、テイスティング付き合う?」

「……飲んでみたい」


 ハディートはいつもの調子で小さなテイスティンググラスを私の前に置いた。濃い赤が、ランプの下でゆっくり揺れている。


「どうだ?」


 私はおそるおそる一口含んだ。舌の上に広がるのは思っていたより柔らかい渋みと、あとからじんわり来る酸味。


「……匂いは重たいのに、飲んだら優しいですね」

「ほう?」

「なんか、温かい感じします」

「詩人のくせに雑な感想だな」

「すみません……素人なので」


 肩をすくめるとイグナスは短く笑った。いつもより笑い方が静かで、それがかえって落ち着かない。

 店内には、まだ私とハディートとイグナスしかいない。外の通りを歩く人の足音がうっすらガラス越しに聞こえるくらいの時間帯だ。なのに、空気はすでに夜更けみたいに重かった。


 ハディートはワインをイグナスのグラスにも注ぎ、自分の分も少しだけ注ぐ。三つのグラスの赤が、カウンターの木目の上で三つの暗い光になった。


「この前、レイくん元気そうでしたね」


 何か普通の話題を探そうとして私は口を開く。


「……あぁ。()()()()()()()()()()()()()()()()


 イグナスの表情はほとんど変わらない。その無表情さが、かえって感情の濃さを隠しているように見えた。


「仲良さそうでちょっと()()でした」

「意外って……なんだ」

「もっとこう……父親と子どもって距離感難しそうだなと思って」

「……()()()()


 イグナスはグラスをゆっくり回す。赤い液面に、カウンターの灯りが歪んで映る。


「難しいからうまくやれてるふりをするしかない」


 それ以上、何を言えばいいのか分からなくなって私は口をつぐんでしまった。

 しばらく三人のあいだに短い会話と沈黙が交互に落ちる。どちらも落ち着かない。


 イグナスが何か言い出そうとして飲み込む。その度にハディートの視線がわずかに動く。私には意味の分からないやりとりが、目線の高さで行ったり来たりしているみたいだった。


 どうも落ち着かない場を紛らわせるために、ハディートがいつもの癖でタバコの箱を取り出した。

 ぱか、と蓋を開ける。中を覗き込んだ彼の眉が、ほんの少しだけ動く。


「……あれ」


 箱を軽く振る。カラカラ、と心もとない音だけが鳴った。


「切らしてたか。しまったな」

「珍しいな。お前が煙草切らすなんて」


 イグナスが、くいっと顎を上げる。


「昨日の夜ちょっと吸いすぎたみたいでね。……朱音」


 名前を呼ばれて、私は顔を上げた。


「はい」

「悪いけど、角のコンビニまで行ってきてくれる?」

「え、でもお客さん――」

「イグナスを一人にしても店は燃えないよ。今日はワインだし」

「さぁ、どうだろうな」


 イグナスが、笑っているのかどうか分からない声を出す。ローブの袖口が、グラスを持つ手元でわずかに揺れた。

 ハディートは空箱と1000円札を私に渡した。


「同じやつね。お釣りでおつまみでも買っておいで」

「……分かりました。すぐ戻ります」


 扉に向かう途中で、背中に二人分の視線を感じた。

 振り返れば何か分かるような気がした。けれど、振り返らない。

 私がここを離れた後、二人が話すことは――あまり明るい話ではなさそうだ。それだけは、なんとなく分かる。

 ドアノブに手をかける。冷たい金属の感触が指先から腕に伝わる。

 扉を開けると、外の空気がすっと流れ込んできた。ワインとアルコールと、古い木の香りを薄めていく。


 からん、とベルが鳴る。その音にかぶさるようにかすかな声が耳に触れた。

 だが、続きの言葉が届く前に扉が背後で静かに閉まった。

 気のせいかもしれない。ただ、重たい話の入口だけを偶然踏んでしまったような感覚だけが残る。


 角のコンビニまでの道のりが、いつもより少しだけ長く感じられた。


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