49.封じられた生
ノクティスが戻ってきて、鍵束から古びた真鍮鍵を一つ外した。革のタグには「312」と手書きの数字。両手で大事そうに包むようにして差し出す。
「……こ、これ、返却は受付でいいので……」
「あぁ、ありがとう。少し見てくる。君たちはここで待っていて」
ハディートは短く告げ、ドアノブを静かに押した。蝶番が低く鳴り、足音が廊下に溶けていく。室長室には、薬瓶のガラスが触れ合う微かな音と、ムートの喉のゴロゴロだけが残った。
ノクティスは人形を見やると、白衣の袖口をもぞもぞ指で整えこちらにおずおずと向き直る。
視線は合わないまま、ためらいがちに口を開いた。
「……あの、一つ聞いてもいいですか。ハディートのこと、どう思ってる?」
唐突な直球に私は一瞬言葉を探し、それから苦笑した。
「変人だし、変態だとも思うけど……魔術師としては、凄い。多分、誰よりも」
「へぇ……そうなんだ。あんな怖い人いないけどね」
「怖いの?」
「怖いね……」
ノクティスは机の角に置かれた羽根ペンを、きっちり直角に揃えながら続けた。オッドアイが泳ぎ、声は酷く小さい。
「何を考えているか分からないし、魂が――そこにない」
「魂がない?」
「僕には、動物も人も音みたいに聞こえるんだ。胸の奥で鳴る、体温みたいな声。ムートは今みたいに元気で、君のは少し波が速い。けど、ハディートは……遠い。ここにいるのに、響きが別の場所に置かれてる感じがする」
彼は言葉を探すように、白衣の裾をぎゅっと握る。
「まぁ、魔術師は元から死んではいるんだけどね。魔術師になる条件の一つとして人としての死を通過するから。でもハディートは特別で――本当の意味で生きている魔術師なんだ。生きているのに、生きていない。どこかに封じてる」
「そんなことして意味あるの?」
「さぁ、僕には分からないけど……多分、必要なんだと思う」
返す言葉が見つからず、私は人形のガラスの瞳を見た。さっきの微かな悲鳴はもう聞こえない。ただ、光を一つ飲み込み、硝子は静かに沈黙している。
ムートが椅子から机へ軽く移り、私の手の甲に鼻先を押し当てる。小さな体温が考えすぎて冷えた指先に戻ってきた。
ノクティスは白衣の袖口をいじりながら、ふと思い出したように視線を宙に泳がせた。
「――あぁ、そういえば、この前ルシアンから君のことは聞いたよ」
心臓が小さく跳ねる。あのアトリエの匂いが、一瞬だけ鼻の奥に蘇った。
「ル、ルシアンから……」
「僕はあんな荒っぽいことはしないから、そんなに怯えなくていいよ。――他の人たちのことは、知らないけど」
「怖いこと言わないでくださいって」
自分でも苦笑だと分かる声が出た。ムートが机の端で前足を重ね、こちらをちらりと見上げる。
ノクティスは羽根ペンの角度を直角に揃え、机上の定規を定規で揃えるという謎の作業を二度ほど繰り返してから、ぽつりと続けた。
「ハディートが側にいるから手は出さないだけ。いなかったら――うん、速攻で僕みたいにここに置かれてるだろうね」
「えっ、置かれてるって……軟禁されてるの?」
「そう。……いろいろ、仕方ないんだけど」
乾いた笑いが、薬瓶の並ぶ室内で薄く弾んで消える。言葉以上のものが奥に隠れているのは分かったが、彼はそこへは踏み込ませまいとするように、視線を人形へ逃した。
私は言葉を探して、見当外れの問いを口にしてしまう。
「図書館、好きなんですか」
「うん。静かで、規律的で落ち着くよ」
ムートが「にゃ」と短く返事をし、ノクティスは嬉しそうに頷いた。その頷きのあと、彼はためらいがちにこちらへ向き直る。
「君は……怖くないの?」
「何がですか」
「この世界全部。君の立ち位置。選ばれたとか、そういう言葉の裏側」
胸のどこかに冷たい空気が流れ込む。返事を急ぐと嘘になると思い、私は少し間を置いた。
「――怖いですよ。でも、ここに来てから、怖いの反対って平気じゃなくて、分かるなんだなって思い始めました。分かればまだ動けるから」
ノクティスはぱちぱちと数度瞬きをし、それから小さく笑った。
「それ、いい言葉だね。……分かれば、動ける。うん」
彼の笑みは、最初に見せた怯えたものではなく、綻びに近い。
ノクティスはまた羽根ペンの位置を二ミリほど調整し、低く付け足す。
「もし、ここが窮屈に感じたら、石畳の中庭へ行ってみて。昼の光がよく落ちるから、ムートも君も、少し楽になる」
「ありがとうございます」
礼を言うと、彼は「うん」と頷いて、戸の向こうへ耳を澄ませた。かすかな革靴の足音――ハディートが戻ってきたらしい。
「……最後に一つだけ。ハディートは怖い。でも、彼が側にいる間は君はここに置かれない。それは本当だと思う。気を付けて」
ノクティスのオッドアイが、ようやく真っ直ぐ私を捉えた。そこに敵意はなく、ただ観測者の淡い誠実さがあった。
廊下の向こうで金属の鍵が触れ合い、小さな鈴のような音が鳴る。私はムートのキャリーの取っ手を握り直し、深く一つ息を吸った。




