表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

46/54

46.詩の実験場

 昼下がりの陽射しが吉祥寺の住宅街を撫で、ハディート邸の窓枠を柔らかい金色に染めていた。

 リガルディーは今日も監察局に出向いている。

 ダイニングテーブルには今朝淹れたコーヒーの残り香だけが漂い、湯気はもう薄い。私は食器を片づけながら書斎の戸口をそっと覗く。

 半開きのドアの向こうでは、ハディートが万年筆を走らせたりノート PC のキーを打ったりと、いつもの二つの仕事を器用に行き来していた。ひとつは脚本のメモ書き、もうひとつは魔術理論の論文――昼の彼は、おおむねこのどちらかに没頭している。


「お茶を替えますね」


 声を掛けると返ってくるのは「ありがとう」のひと言だけ。視線も上げずにペンをすべらせ、ページを繰る音が室内に小さく響く。

 私は淹れ直したダージリンを卓上にそっと置き、自室代わりのリビングに戻った。窓辺のクッションではムートが半分だけ眼を開け、日向に尻尾を揺らしている。


 買い置きの文庫本を開くが、活字はすぐ霧がかかったようにぼやけた。頭の奥に、ルシアンに囁かれた「同じ魔力波形」という言葉がこだまする。

 それでも――昼の静けさだけは守られている、と自分に言い聞かせ、ページをめくった。


 午後三時。書斎のドアがわずかに軋み、ハディートが顔を覗かせた。


「朱音。そういえば今朝コーヒー豆が切れた。浅煎りを買ってきてくれるか?」

「分かりました。何か甘いものも要りますか?」

「任せる。君がアイスより甘いものを欲している顔だ」


 思わず笑って立ち上がる。ムートが不安げに鳴くが、「今度は大丈夫。すぐ戻るよ」と撫でて玄関を出た。


 商店街へ出ると、平日の午後は人影がまばらで、花屋の前に並ぶラナンキュラスが風に揺れている。

 コーヒー豆と苺のロールケーキを抱え、帰り道を急ぎながら私は胸の奥で言葉を探していた――夜になったら、セラフ由来の器についてもう少し聞こう、と。


 帰宅すると、ハディートはノート PC を閉じ、手帳に脚本の断片を写していた。執筆の姿勢は呼吸と同じで、昼も夜もこれだけは変わらないらしい。


「ただいま戻りました。浅煎りとケーキです」

「助かった。早速食べよう」


 豆を挽くと、フルーティな香りがキッチンいっぱいに広がる。ムートが足元をくるりと回り、尾を立てながら「にゃあ」と鳴いた。

 刻々と夕暮れが近づき、時計の秒針が静かに店じまいの気配を告げる。

 ――Ashveil開店まで、あとわずかだ。


*


 開店ベルが鳴って一時間ほど。

 常連の会社員がハイボールを片手に退席し、入れ替わりの客足がまだ途切れた頃だった。

 真鍮の風鈴が短く揺れ、静かな足取りで細身の紳士が入って来る。銀縁の眼鏡、端整なスーツ――ビンゴ先生だ。


「こんばんは。遅い時間の方が客席の温度を観察しやすくてね」

「いらっしゃいませ。今夜はハイボールでよろしいですか?」

「あぁ。ラガヴーリンをソーダで」


 私は氷柱を割り、深い琥珀を注ぎ込む。炭酸が糸を立て、ピートと海藻の香りが立ち上る。

 先生はグラスを受け取り、ひと口だけ味を確かめると満足そうに頷いた。


 ハディートはカウンター内で伝票をまとめていたが、ふとペンを止めてビンゴ先生を見やる。


「今日は仕事の話ではないだろう?」

「もちろん。ただの耳学問さ。昼間の静けさが夜にどう変わるかを眺めに来ただけ」


 眼鏡越しに私へ視線を向ける。


「朱音の器の話――昨夜は途中で切れたと大魔術師から聞いたよ。もし差し支えなければ続きを聞きたい」


 唐突な指摘に胸がざわめく。確かに、昼の買い物の帰り道で夜になったら聞こうと自分に誓った。伏線は残ったままだ。

 ハディートは私と先生を見比べ、渋い息を吐く。


「なら、今夜は少し踏み込もう。だが大げさな専門用語は抜きだ」

「了解。僕はただの一般人だから、噛み砕いた話のほうが助かる」


*


 カウンターの隅で蝋燭の火を落とし、ハディートは小さなノートを開いた。

「朱音」と私の名を呼び、低い声で切り出す。


「君の内部にはセラフが書き込んだ魔術回路がある。簡単に言えば――魔術を流すための水脈を、彼が無理やり敷いた」


 私は体の奥で冷たい水音を想像し、無意識に指先を握る。


「でも私は、普通にご飯を食べて寝て……魔術師って自覚も無かった」

「水脈は普段は眠っている。強い願い――願望エネルギーがかかった時だけ流れ込む。昨日ルシアンに拘束された時、恐怖と反発で一節の詩が湧いたろう? そこで初めて強く流れた」


 ビンゴ先生は頬杖を付き、グラスを揺らす。


「なるほど。蛇口が開く瞬間だけ奔流が起こるわけだ」


 ハディートは頷き、続ける。


「問題は、水脈の源にセラフの意志が残っている点だ。もし彼が干渉して来れば、君の内部で同調――波形の共鳴が起きる可能性がある。君の詩は君のものだが、下書きの一部はセラフのインクで書かれたままなんだ」


 私は言葉を探し、ようやく絞り出す。


「その下書き、消せるんですか?」

「書き換えはできる。詩を積み上げ、君自身の文脈で上書きすればいい。完全に消すには莫大なエネルギーが要るが、自分の詩の方が濃く強くなるならリスクは減る」


 ビンゴ先生が軽く指を鳴らす。


「要は()()()()()()()()()()()作業だね。観察者としては興味深い課題だ」


 私は深く息を吐き、正面からハディートを見る。


「じゃあ――私がもっと詩を書いて、もっと願いを扱えば、セラフの痕跡は薄れるんですか?」

「理屈の上ではそうだ。ただし、無防備に願いを扱うと別の魔術師が寄って来る。だからAshveilを緩衝装置にする。ここで詩を鍛え、外で暴走しないようフィルターを重ねる」


 ビンゴ先生はハイボールの残りを傾け、静かにグラスを置いた。


「意識的に物語を選び直す――面白い。僕は文字通り外野席からそれを観客として見届けるよ。危険なボールが飛んできたら避けるしかないがね」


 ハディートの口元に僅かな笑みが浮かぶ。


「外野が逃げられるなら、それでいい。僕の仕事は舞台を焼かないことだ」


*


 時計が一時を指す頃、店は再び賑わい始めた。

 街の夜風と共にスコットランド帰りの会社員が入り、続いて恋人同士がウイスキーフライトを頼む。

 ビンゴ先生は観察メモを取りつつ、杯を重ねることなく席を立った。


「本日の観劇はここまで。グラスを割らずに撤退しよう」

「お気をつけて。また静かな夜に」


 私たちの挨拶に、先生は片手を挙げて扉を抜けた。

 戻った静けさの中、私はシンクでグラスを洗いながらハディートに尋ねる。


「……私、これから毎晩ここで詩を紡いでいくのですか?」

「紡ぐペースは君の呼吸で決めればいい。けれどラベルは貼っておこう――危険区域:詩の実験場とね」


 琥珀色のボトルが光を返し、グラスの水音が小さく店内に溶ける。

 私は胸の奥でそっと言葉を転がした。

 ――器はまだ下書き。でも上書きはきっと出来る。


 鉄と硝子の夜、時計の針はゆっくりと次の一分を刻み、真鍮の扉の向こうでは新しい客の足音が近づいていた。




――器はまだ、他者の声を孕んでいる

それでも私は 名もない午後に

ひとつずつ 自分の名を編み直す――

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ