46.詩の実験場
昼下がりの陽射しが吉祥寺の住宅街を撫で、ハディート邸の窓枠を柔らかい金色に染めていた。
リガルディーは今日も監察局に出向いている。
ダイニングテーブルには今朝淹れたコーヒーの残り香だけが漂い、湯気はもう薄い。私は食器を片づけながら書斎の戸口をそっと覗く。
半開きのドアの向こうでは、ハディートが万年筆を走らせたりノート PC のキーを打ったりと、いつもの二つの仕事を器用に行き来していた。ひとつは脚本のメモ書き、もうひとつは魔術理論の論文――昼の彼は、おおむねこのどちらかに没頭している。
「お茶を替えますね」
声を掛けると返ってくるのは「ありがとう」のひと言だけ。視線も上げずにペンをすべらせ、ページを繰る音が室内に小さく響く。
私は淹れ直したダージリンを卓上にそっと置き、自室代わりのリビングに戻った。窓辺のクッションではムートが半分だけ眼を開け、日向に尻尾を揺らしている。
買い置きの文庫本を開くが、活字はすぐ霧がかかったようにぼやけた。頭の奥に、ルシアンに囁かれた「同じ魔力波形」という言葉がこだまする。
それでも――昼の静けさだけは守られている、と自分に言い聞かせ、ページをめくった。
午後三時。書斎のドアがわずかに軋み、ハディートが顔を覗かせた。
「朱音。そういえば今朝コーヒー豆が切れた。浅煎りを買ってきてくれるか?」
「分かりました。何か甘いものも要りますか?」
「任せる。君がアイスより甘いものを欲している顔だ」
思わず笑って立ち上がる。ムートが不安げに鳴くが、「今度は大丈夫。すぐ戻るよ」と撫でて玄関を出た。
商店街へ出ると、平日の午後は人影がまばらで、花屋の前に並ぶラナンキュラスが風に揺れている。
コーヒー豆と苺のロールケーキを抱え、帰り道を急ぎながら私は胸の奥で言葉を探していた――夜になったら、セラフ由来の器についてもう少し聞こう、と。
帰宅すると、ハディートはノート PC を閉じ、手帳に脚本の断片を写していた。執筆の姿勢は呼吸と同じで、昼も夜もこれだけは変わらないらしい。
「ただいま戻りました。浅煎りとケーキです」
「助かった。早速食べよう」
豆を挽くと、フルーティな香りがキッチンいっぱいに広がる。ムートが足元をくるりと回り、尾を立てながら「にゃあ」と鳴いた。
刻々と夕暮れが近づき、時計の秒針が静かに店じまいの気配を告げる。
――Ashveil開店まで、あとわずかだ。
*
開店ベルが鳴って一時間ほど。
常連の会社員がハイボールを片手に退席し、入れ替わりの客足がまだ途切れた頃だった。
真鍮の風鈴が短く揺れ、静かな足取りで細身の紳士が入って来る。銀縁の眼鏡、端整なスーツ――ビンゴ先生だ。
「こんばんは。遅い時間の方が客席の温度を観察しやすくてね」
「いらっしゃいませ。今夜はハイボールでよろしいですか?」
「あぁ。ラガヴーリンをソーダで」
私は氷柱を割り、深い琥珀を注ぎ込む。炭酸が糸を立て、ピートと海藻の香りが立ち上る。
先生はグラスを受け取り、ひと口だけ味を確かめると満足そうに頷いた。
ハディートはカウンター内で伝票をまとめていたが、ふとペンを止めてビンゴ先生を見やる。
「今日は仕事の話ではないだろう?」
「もちろん。ただの耳学問さ。昼間の静けさが夜にどう変わるかを眺めに来ただけ」
眼鏡越しに私へ視線を向ける。
「朱音の器の話――昨夜は途中で切れたと大魔術師から聞いたよ。もし差し支えなければ続きを聞きたい」
唐突な指摘に胸がざわめく。確かに、昼の買い物の帰り道で夜になったら聞こうと自分に誓った。伏線は残ったままだ。
ハディートは私と先生を見比べ、渋い息を吐く。
「なら、今夜は少し踏み込もう。だが大げさな専門用語は抜きだ」
「了解。僕はただの一般人だから、噛み砕いた話のほうが助かる」
*
カウンターの隅で蝋燭の火を落とし、ハディートは小さなノートを開いた。
「朱音」と私の名を呼び、低い声で切り出す。
「君の内部にはセラフが書き込んだ魔術回路がある。簡単に言えば――魔術を流すための水脈を、彼が無理やり敷いた」
私は体の奥で冷たい水音を想像し、無意識に指先を握る。
「でも私は、普通にご飯を食べて寝て……魔術師って自覚も無かった」
「水脈は普段は眠っている。強い願い――願望エネルギーがかかった時だけ流れ込む。昨日ルシアンに拘束された時、恐怖と反発で一節の詩が湧いたろう? そこで初めて強く流れた」
ビンゴ先生は頬杖を付き、グラスを揺らす。
「なるほど。蛇口が開く瞬間だけ奔流が起こるわけだ」
ハディートは頷き、続ける。
「問題は、水脈の源にセラフの意志が残っている点だ。もし彼が干渉して来れば、君の内部で同調――波形の共鳴が起きる可能性がある。君の詩は君のものだが、下書きの一部はセラフのインクで書かれたままなんだ」
私は言葉を探し、ようやく絞り出す。
「その下書き、消せるんですか?」
「書き換えはできる。詩を積み上げ、君自身の文脈で上書きすればいい。完全に消すには莫大なエネルギーが要るが、自分の詩の方が濃く強くなるならリスクは減る」
ビンゴ先生が軽く指を鳴らす。
「要は自分で自分を定義し直す作業だね。観察者としては興味深い課題だ」
私は深く息を吐き、正面からハディートを見る。
「じゃあ――私がもっと詩を書いて、もっと願いを扱えば、セラフの痕跡は薄れるんですか?」
「理屈の上ではそうだ。ただし、無防備に願いを扱うと別の魔術師が寄って来る。だからAshveilを緩衝装置にする。ここで詩を鍛え、外で暴走しないようフィルターを重ねる」
ビンゴ先生はハイボールの残りを傾け、静かにグラスを置いた。
「意識的に物語を選び直す――面白い。僕は文字通り外野席からそれを観客として見届けるよ。危険なボールが飛んできたら避けるしかないがね」
ハディートの口元に僅かな笑みが浮かぶ。
「外野が逃げられるなら、それでいい。僕の仕事は舞台を焼かないことだ」
*
時計が一時を指す頃、店は再び賑わい始めた。
街の夜風と共にスコットランド帰りの会社員が入り、続いて恋人同士がウイスキーフライトを頼む。
ビンゴ先生は観察メモを取りつつ、杯を重ねることなく席を立った。
「本日の観劇はここまで。グラスを割らずに撤退しよう」
「お気をつけて。また静かな夜に」
私たちの挨拶に、先生は片手を挙げて扉を抜けた。
戻った静けさの中、私はシンクでグラスを洗いながらハディートに尋ねる。
「……私、これから毎晩ここで詩を紡いでいくのですか?」
「紡ぐペースは君の呼吸で決めればいい。けれどラベルは貼っておこう――危険区域:詩の実験場とね」
琥珀色のボトルが光を返し、グラスの水音が小さく店内に溶ける。
私は胸の奥でそっと言葉を転がした。
――器はまだ下書き。でも上書きはきっと出来る。
鉄と硝子の夜、時計の針はゆっくりと次の一分を刻み、真鍮の扉の向こうでは新しい客の足音が近づいていた。
――器はまだ、他者の声を孕んでいる
それでも私は 名もない午後に
ひとつずつ 自分の名を編み直す――




