44.還る光、解ける影
転移光がほどけ、足裏に感じるのは硬質なフローリング。
視界が定まるより早く、ムートの「にゃあ」という切迫した声が飛んできた。黒猫は廊下の奥から駆け寄り、私の足元に頭を擦りつける。
「お帰りなさいませ」
リガルディーが玄関側から現れた。薄水色のエプロン姿で、腕にタオルを掛けている。
ハディートの隣に立った私に目を向け、息を呑んだ。
「朱音さん、そのお召し物は……」
真ん中から裂かれた記憶はあったが、よく見てみると柄回りが赤黒く染まっている。
「あー……まぁ、ルシアンに無理矢理裂かれたと言いますか……縛られてこうなったと言いますか……」
曖昧に笑おうとしたが、リガルディーはすぐ表情を引き締め、背後へ向き直る。
「すぐに替えをご用意します。少々お待ちを」
彼が走り去った隙に、ハディートが私の肩を軽く押しリビングのソファに腰を下ろさせた。
ムートが跳び乗り、胸元へそっと乗しかかってくる。温かい重みが全身の緊張をほぐし、私はようやく深呼吸を吸い切れた。
数分も経たぬうち、リガルディーがやや大ぶりの紙袋を抱えて戻ってくる。
息を整えながら、袋の口を私に差し出した。
「近所のショップで間に合わせですが、新品のシャツと……念のため、インナーも」
小さく声を落としつつ、その気遣いは完璧で、タグも付いたままの白シャツとパステルピンクの下着セットが見えた。
「ありがとうございます、本当に……」
袋を受け取る手が震えているのを悟られまいと、私はムートの背を撫でながら笑みを作った。
リガルディーはホッとした表情で微笑む。
「シャワールームを暖めてあります。傷口も洗ってください。必要なら薬もお持ちします」
背後でハディートが短く礼を言うと、リガルディーは姿勢を正してキッチンへ戻った。
廊下に漂うアールグレイの香りが、ようやく日常を取り戻してくれる。
私は膝の上のムートをそっと抱え直し、シャツの裂け目を押さえた。
――生きて帰ってこられた。しかも温かい家と、替えの服と、心配してくれる人が待っていた。
胸の奥にじんわり熱が広がる。怖さも痛みもまだ残っているのに、不思議と落涙はなかった。
*
熱めのシャワーで血と油絵具の匂いを洗い流し、リガルディーが用意してくれた真新しい白シャツに袖を通す。薄桃色のインナーはまだタグが付いたままで乾いた布の感触が傷へ沁みたが、古傷も包帯もきれいに隠れた。
ムートを腕に抱き上げ、廊下を抜けてリビングへ戻ると、夕刻の窓から柔らかな淡橙の光が差し込み、照明を点けなくても部屋を温めていた。
ハディートはソファ前のローテーブルに肘を突き、手元のカップから立ちのぼる湯気を見つめている。リガルディーはティーポットを隣に置き、トレイに私の分のミルクティーを用意してくれていた。
「ありがとう、リガルディー」
「どうぞ。まだ熱いので気をつけてください」
ムートを膝に降ろし、私は新しいカップを両手で包む。茶葉の甘い香りが安堵と共に胸へ落ちるが、背筋に張り付いた疑問は消えない。
「ハディート」
彼が瞳を上げる。灯りを映した翡翠色は、先ほどの厳しさを残しながらもわずかに和らいでいた。
「ルシアンにどうして反撃しなかったの?」
ハディートは一拍置き、軽く肩を竦める。
「まぁ、教育的配慮かな」
「ど、どういうことです? ……そんなこと気にするタイプでしたっけ? そもそも相手は大学生ですし、あんな気味悪い絵を描いてるんですよ?」
カップをそっとソーサーに戻して問い詰めると、彼は苦笑しながら視線を窓辺の暗がりへ泳がせた。
「いや、そっちじゃなくて」――会話の半ばで言葉を濁し、ハディートは右手でマグカップの縁をなぞる。
「別の視線があった。あの絵を燃やすための炎をそこで上げるわけにはいかなかったんだ。……クレアっていう子なんだが」
空気が瞬時に張り詰める。ハディートは肯定とも否定ともつかぬ表情で目を細める。
「ク、クレア?」
意味を測りかねた私が首を傾げると、リガルディーは眉尻を下げた。
「なんであの子が……?」
ハディートは背もたれに寄りかかり、小さく嘆息した。
「さぁ? ルシアンも困惑していた。あいつが呼んだわけじゃなさそうだ」
ムートが緊張を察したのか、尻尾で私の手を叩く。私は深呼吸を一つ置き、再度尋ねる。
「クレアって誰?」
ハディートは言い淀み、窓外の空へ視線を投げる。
「あー……東の魔術師なんだけどな。いろいろワケありで、僕でも迂闊に触れない」
言葉を濁す声音に、容易には語れない事情が滲む。疑問符を飲み込みかけた私に、リガルディーが柔らかな声で重ねた。
「朱音さん。あの子は……難しいんですが……出自が本人に知れるとよろしくないくらい傷を負わされた子なので……」
語尾を下げた慎重な言い回しの奥に、厳格な守秘と同情が混じる。
私は頷き、カップを握り直した。理解しきれないままでも、今は深追いしない方がいい。
ムートが再び「にゃ」と鳴く。張り詰めた空気を薄めるようにハディートは苦笑し、テーブルの端に置いていたレシート指で押し出した。
「あぁ、そういえばアイス買っておいたぞ。冷凍庫に入れてある。改めて花見でもしながら食べようか」
紙包みの中の桜色を思い出し、私はようやく笑みを返す。
複雑に絡む魔術師たちの思惑はまだ霧の中だが、今はここが私の帰る場所――そう思えるだけで、胸の奥がほのかな熱で満たされた。




