43.嗜虐と無垢のコントラスト
倫理に著しく欠ける表現があります。
鎖は依然として首と四肢を縛っていたが、詩を紡いだ瞬間の微かな揺らぎは残っていた。
ルシアンはキャンバスの前で立ち止まり、ペン型の杖を指先で転がす。
灰色の瞳に映る私の姿は、まさに「素材」として選別される獲物そのものである。
「もう一度だ。今の声じゃ足りない。お前自身の願いが滲んでない」
彼はリードを軽く弾いた。細い鎖が震え、呼吸が喉奥で途切れる。
「願い……」
声を出すたびに胸骨の古傷が軋む。事故――右半身の裂傷と骨折の痕。痛みの記憶は私に生き残った理由を問い続ける。
ルシアンはそんな内心すら透視したように鼻で笑う。
「生に未練がない顔だな。なら簡単だ。俺の術式で美しく死んでみせろよ」
杖の先端が床を叩くと、石灰で描いたような魔方陣がふっと光った。赤錆色の円に刻まれた意匠は、静物画の構図をどこか思わせる。中心に立つ私の影が歪み、皺のように引き裂かれていく。
(詩を、もう一節……)
肺にわずかに残った息で声を編もうとしたその時、アトリエの奥から鈍い震動が響いた。
ゴッ、と壁が揺れる低音。ルシアンが眉をひそめ、杖を構え直す。
「誰だ?」
答える代わりに再び壁が震えた。絵画がわずかに浮き、釘がきしむ。
三度目の衝撃。今度はドアが内側から爆ぜたのかと錯覚するほどの破砕音――。
木の破片が宙を散り、黒い霧のような魔力の残滓が廊下へ噴き出した。
破れた扉の隙間から足を踏み入れてきたのは、杖を持った藍色のトレンチコートを纏った男。銀糸のような魔法陣が外套の袖口で瞬き、瞳は燃え立つ琥珀を映している。
「……探すのに苦労したぞ、ルシアン」
ハディートだった。
声は低く抑えられているが、怒気がはっきり輪郭を帯びている。破壊した扉の蝶番跡から黒い煙が漂い、魔力と木屑の臭いが混ざる。
ルシアンは口元を吊り上げ、椅子を蹴るように立った。
「ハディート、奇遇だな。ちょうどお前の飼い犬を試食しようとしてたんだよ」
「生憎、彼女は犬じゃない。……鎖を解け」
ハディートは左手を軽く上げた。指の先で火花のような符形が連鎖し、消えていく。それだけで床の魔方陣は外郭からほつれ始めた。
ルシアンの目が細くなる。
「相変わらずだな。解析も破壊も一瞬。だが、俺の術式は死へ向かう意志を核にしてる。本人の生きる意欲が弱ければ崩れない」
ハディートは私から視線を外さず、トレンチコートの前をかすかに開く。
中から赤色のインクで描かれた羊皮紙の魔方陣―召喚符の中紙が覗いた。
「朱音、耳だけ貸せ。死へ向かうなんてお粗末な定義に従う必要はない。君の生の定義は君が決めろ」
言葉は短く静かだが、私の鼓動が震えるほど強く胸へ響く。
首の鎖はまだ冷たい。けれど中心ではなく縁が剥がれ、魔術の糸が一本ずつ切れていく感触がした。
ルシアンは舌打ちし、杖を振り抜く。床から黒い鎖が伸び、ハディートに向けて一斉に跳ね上がる。
ハディートは右手で召喚符を一片放り、詠唱もなく空中で紙片を展開させた。紙片は薄い鏡のように光り、鎖は触れる前に蒸気へ散る。
「さすが、死の設計にはこだわりがあるようだが――」
ハディートの声が冷たく澄む。
「君の魔術は《固定》に依存しすぎる。観測者の自我が揺らげば、構造も振動する。――ほら、もう歪みが走っている」
その言葉通り、鎖は目に見えて解れ、くすぶる火の粉のように散った。体の自由が戻る。私は壁を支えに立ち上がり、肺の奥へ空気を押し込んだ。
生き延びたい。その言葉を明確に心に刻むと、右半身の重い痛みさえ動力源に変わる。
ハディートは攻撃姿勢をとらず、周囲の空気を計るように視線を巡らせた。
ルシアンはリードをくるりと指に巻き取り、唇をひねった。
「反撃しないのか? あの時と違って温いな~ハディート」
「……君が切り札を持っている顔に見えるからだ」
ハディートはそう呟き、私の肩口へ片手を差し延べた。その掌には小さな転移陣を組みかけた微光が浮かぶ。
けれど彼の視線はルシアンの背後ではなく、室内の左側──暗がりの奥へちらりと流れ、すぐに戻った。そこに何か気配だけが潜んでいるらしいが、正体は掴めない。
ルシアンが挑発気味に肩を揺らす。
「こうしてる間にも観察は進んでるぜ? 早くここを硝煙と血の匂いで満たせば、絵になるのによ」
その言葉とは裏腹に、彼自身も踏み込みきれず杖を構えたまま足を止めている。
ハディートは私を顧み、低く告げた。
「鎖を完全に解いたらすぐ逃げる。いいね?」
私は小さく頷く。首輪に残る冷たさがじゅっと溶けるように離れ、金属光の残滓が宙で砕け散った。
「お前のアトリエを炎上させる趣味はない」
ハディートは静かに言い、袖口から朱の符片をひとつ滑らせた。
瞬時に転移陣が床へ走り、私たち二人を包む血赤の円に変わる。
「逃げるんだ?」
ルシアンが鼻で笑うが追ってこない。ハディートの目が再び暗がりの気配へ警告するように向き、それだけで場が凍った。
何かがこちらを見ている――ただし姿は影より深く、名も行いも語らない。
「ここで騒ぎを大きくすれば後が面倒だ」
ハディートはそうだけ言い残し、詠唱を極小の息で結んだ。赤い光が跳ね、私たちの足元が一瞬ふわりと浮く。
ルシアンの声が空間のしわに引っ掛かる。
「面白いもの見せろよなぁハディート。次は逃がさねぇぞ」
視界が紅に塗り替わり、木炭の匂いと油彩の湿りを置き去りにして、私とハディートは空間を跳ねた。
*
扉が閉じ、紅い転移光が消えてからも、ルシアンのアトリエには乾いた火薬の匂いがうっすら残っていた。
黒の革ジャンを鳴らして肩を回し、胸を張ると大きく息を吐いた。
「……なーんて抜かしたこと言ったけど、危なかった~! 絵燃やされたらたまったもんじゃない」
言葉とは裏腹に、額にはほんのり汗珠が滲む。
椅子を引き寄せると深く腰を落ち着け、キャンバスを見回した。
「俺でもハディートには勝てないからなぁ。さすがに!」
すると、絵の山陰からひょこり小柄な影が現れた。
中学生ほどの背丈にツインテールの金髪、白いワンピースにポップな缶バッジを散らしたキャンバスバッグ。無邪気な足取りで近づくその少女は、しかし瞳だけが不思議に空ろで、年齢相応の熱を宿していない。
「ルシアン負けちゃったの?」
純粋な問いに、彼は眉間を寄せて振り向く。
「は? 負けてねぇよ。さっきのは調停ね?」
「え~、でも、わたしが来てからちょっとビビってたじゃん」
「あ~もうこのメスガキがぁっ!! 俺はガキが嫌いなんだ、さっさと出ていけ!」
しっしっ、と手を振るが、少女はまったく気にする様子がない。
「いやだ! 絵見る!」
「お子様には見せちゃいけない絵だけど……まぁいっか」
彼女はキャンバスをすり抜けるように進み、一枚の暗い静物画を指さす。
布の上に不定形の肉塊が散り、赤と黒の絵具が重く滲んだ作品だ。
「これすきだよ!」
ルシアンは肩をすくめつつ、どこか誇らしげに鼻を鳴らす。
「あーそれ? お前、意外とセンスいいじゃん。カリンから堕胎させたヤツね。尊厳破壊こそ板!」
「よくわかんないけど色使いがすき!」
無邪気な言葉に彼はご満悦で腕を組む。
「いいだろう? 部位が判別できないほど切断された造形美。人権なんざ無いからこそ成立する芸術――あぁ、そもそも君みたいなメスガキは……」
熱弁を振るう彼を尻目に、少女はすぐ別の壁を指差した。
そこには半人半龍の青年を描いた、動きのエネルギーを孕んだ大型キャンバスがあった。
「でもこっちもすきー!」
ルシアンは露骨に顔をしかめる。
「はぁっ!? センス無さすぎ!! マジであり得ねぇ、こんなガキが好きなのかよ」
「レイかっこいいもん! わたしの王子さま!」
「ゴミ! カス! あんな構造物そもそも魔術師としてみなすな」
「ルシアンもかっこいいよ?」
「ルシアン『も』じゃなくて、ルシアン『の方が』かっこいい、だろ?」
「うーん」
「なんで悩むんだよ。お前ははいと言え!」
少女はきゃっきゃと笑いながらアトリエを駆け回る。
無垢な足取りは幼児の遊戯に近く、積まれた画材の間を危うげに飛び越えた。
「あーーーー走り回るな!! 作品落としたら殺すぞ!!」
「ルシアンブランコしようよー!」
「はぁ……もう……俺じゃなくたっていいじゃん。お前の王子様にやってもらえ」
「ルシアンがいい!」
「……あーはいはい分かりましたよ。ったく監察局も管理しておけよ……」
ぶつぶつ文句を言いながらもルシアンは杖で床を軽く叩き、簡易の浮遊盤を描く。
少女はそれに飛び乗り、満面の笑みでキャンバスを眺めていた。
ルシアンは残った転移痕を一瞥する。凍った闇の隅に目を細め、舌打ちをひとつ落とした。
「逃がした獲物は大きいが……まぁいい。次は完璧な構図で仕留めてやるさ」
彼の呟きは少女には届かず、無垢な笑い声だけがアトリエにこだました。
絵具の甘い臭気の中、死を愛でる魔術師と年齢不詳の少女――互いに満たされぬ興味だけを共有して、春の午後を淡く歪めていた。




