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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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42.蒼白の牙

 昼前。リガルディーが監察局に届ける書類を抱えて外出した。ハディートは例のフィールドワークへ出かけて帰ってこない。家には私とムートだけ。

 ふとスマホのニュースを開くと、期間限定「花見ミルクもちアイス」が今日から発売だという。写真の淡い桜色に胃が鳴った。


 ……歩いて三分のコンビニだし、これくらいなら一人で出歩いても大丈夫だよね?

 自分に言い聞かせるように呟くと、キッチンカウンターでくつろいでいたムートが耳を伏せて振り向いた。


「にゃあ……」


 ムートの目が心配げに細くなる。近寄って頬をぽんと撫でると、しぶしぶ尻尾を絡めてきた。


「大丈夫。ただアイスを買いに行くだけだよ。三分で戻るって」


 そう言っても彼はまだ不満そうに鳴く。

 玄関でスニーカーを履きながら、私はハディートに渡された護符を胸ポケットに滑り込ませた。

 扉を開け振り返ると、ムートが敷居の内側で小さく丸まり金色の瞳でこちらを追ってくる。


「すぐ帰るから、見張りよろしくね」


 ムートの影がきゅっと縮む。行きたくないフラグを立てた気がして苦笑しつつ、私は門を抜けた。


*


 通りは新生活の気配でざわついていた。

 制服の袖がまだ固い高校生、段ボールを抱えた引っ越し業者、植え込みに咲く木蓮――。

 休日のAshveil前よりはるかに日常的な風景だ。


 ――十数歩進んだところで、背中に冷たい針のような感覚が刺さった。視線だ。

 通学自転車のベルの音。アパートのバルコニーで布団を叩く音。私を見ているのは、そのどれでもない。


 胸ポケットの護符が脈打つ気がして、指先で紙の端を確かめる。けれど私は振り向かなかった。

 ハディートもリガルディーも、敵意のない気配には過敏に反応するなと言っていた。こちらが盾を意識しすぎれば、相手は剣の役割を自覚してしまう。

 ……無視無視。三分間だけは、アイス好きな女の子でいよう。


 しかし角を曲がった瞬間、視界が黒く塞がれた。

 ぶつかった。硬い胸板。革の匂い。反射的に後ずさると、相手は私を見下ろしていた。

 黒髪の内側に白い筋が覗き、銀のピアスが両耳で揺れる。

 無機質な灰色の瞳。黒のライダースが春の陽を弾いて光った。


「ご、ごめんなさ――」


 謝りかけた声が喉で途切れる。男の眼差しは鋭く、獲物を測る()のそれだった。

 心臓がひとつ跳ね、護符がポケットで震えた気がする。


「……捕まえた」


 低い声がそう告げたと同時に、右腕が鋲付きの手袋に掴まれた。鉄の輪に閉じ込められたように指先まで痺れる。


「っ、離してください!」


 振り払おうとするが、力は押さえ込まれたまま微動だにしない。通り過ぎる人影があるのに、誰一人こちらを見ない――まるで私たちだけが別の膜の中にいる。

 男は短い詠唱を囁いた。意味の分からない反転した音列が空気を裂き、足元の影が円を描く。

 視界が歪む。アスファルトが墨汁に溶け、街路樹が筆跡のように流れ去っていく。

「やめ――っ」叫ぶより早く、重力が失われた。


*


 次の瞬間、私は知らない部屋の中央に立っていた。

 高い天窓から斜光が落ち、壁一面にグロテスクな絵と魔術陣の設計図。絵具と硝煙の混ざった匂いが鼻を刺す。


 男は私の腕を放し、鞄から万年筆ほどの黒い杖を抜いた。


「ここは俺のアトリエ。――話はゆっくり聞かせてもらう」


 背後で転移陣が閉じ、外界の音が完全に消えた。

 コンビニは確かに三分先だったはずだ。胸の中で護符だけが、触れられぬ警鐘を鳴らし続けている。


 薄いガス灯のようなランプが天井の梁に吊られ、光は絵具の乾きかけた皺と、無数の黒いキャンバスを照らし出していた。

 そこに描かれているのは、色を奪われた花束や、空洞のある頭蓋骨、呼吸の止まった胸元に手を組む人影――全て「死」を写した静物画だった。

 こめかみが脈打つ。私の鼓動だけが、この無音のアトリエに場違いなほど生々しい。


 長身の男は、床に置かれた折り畳み椅子へ腰を落とし、足を組む。革ジャンには塗料の跡が散り、胸元にぶら下がるIDカードには “Tama Art Univ. / Fine Art Dept. 3rd-year” と小さく印字されている。

 右手のペン型の杖が小さく火花を散らし、空気が微かに焦げた。


「蒼白の(ファング)――ルシアン」


 男は自分で舞台幕を開くように名乗った。


「皆、()()()()()()のこと総称して『八方の神』とかいうけど、()()()()()()()()()()間違えて覚えないでね? 人間にとって美しい死をデザインできるのは、この世で俺だけだから」


 自己紹介のはずなのに、まるで私もそれを前提に知っていると決めつける口ぶり。教室の発表で聞き飽きた「分かる人には分かるだろ」的な傲慢を、濃縮して凍らせたような声音だった。


 私は護符を握りしめ、一歩退く。紙片に編み込まれた結界が、恐怖を押し戻す最後の壁に思えた。

 ――が、ルシアンのペン先がわずかに振られると、護符は唐突に燃え上がった。

 藁を焼くような甘い煙。指先が熱で弾かれ、紙は灰になる前に黒い粒子へ崩れ、床へ落ちることなく消えた。


「ッ!」


 焼け跡の感覚が残る手を押さえる間もなく、透明な鎖が地面からせり上がり、私の手首と足首を絡めた。手首は後ろに無理矢理縛られたせいで痛い。魔術の拘束陣が咄嗟にイメージできるほど単純な図形なのに、まるで溶接された鉄のような冷たさだ。


「大声出しても無駄だよ」


 ルシアンは爪のように尖った笑みを浮かべる。


「ここは俺のアトリエなんだから。生きてる者の声は外へ届かない設計にしてる」


 舌が乾く。だが反射的に言い返す。


「……何が目的? 私をどうしたいの?」

「端的に聞く。()()()()()()()()?」


 言葉は刃物だった。黒い瞳孔が光を吸収して鋭く収束する。


「……は、はい?」

「じゃあ何でハディートがわざわざお前を囲ってんだよ? 街で拾ったストリート・マジシャンをあの男が家に住まわせるか? ()()()()()()()()()()()。言い逃れんなよ」


 心臓が一瞬止まり、すぐ過剰に鼓動を上げた。


「私はセラフなんかじゃない!」

「ははっ、じゃあ何だ? ハディートのペットか? それとも見世物か? ……本当の名前も知らないまま、首輪だけ付けられた犬か?」


 彼のペン先が空をなぞると、虹膜の裏側を撫でるような鈍い圧が走った。

 その時、首筋に冷たい金属が弾ける音が響く。

 視線を落とせば、鎖骨の真ん中に細い鎖が巻きつき、その先にリードが延びていた。鎖は肌に沈みこむことなく、魔術で半透明に発光している。

 首輪自体は軽いのに、引っぱられる力は望みを断ち切るほど強い。


「おっと」


 無抵抗でいれば着地できると判断するより早く、ルシアンはリードを軽く引く。

 私は数歩よろめき、油彩の匂いに満ちた空気へ引き寄せられた。彼との距離が一気に縮まる。


「貧相な体だな……。リカよりはマシだが」


 冷笑とともに、彼の視線が私の肩口から腰までを素描するように往復する。

 そこにルシアンがスッと直線を引いたと思ったら、シャツと下着を真っ二つに引き裂いた。

 平たい身体に小さな乳房が露わになる。

 あまりの出来事に悲鳴すら上げられなかった。


「肉付きの話じゃない。生きる方向へ張るエネルギーが薄い。……まぁ、素材の下書きとしては十分か」

「離して……!」


 骨が軋む音と共に、右半身へ鈍い疼きが走る。

 ――高校生のとき事故で受けた傷跡。肋骨の折れ痕は未だ薄い線となって残り、肩甲骨の下では縫い痕が月のクレーターのように歪む。


 ルシアンはわずかに眉を上げる。


「なるほど。()()()()()()()()()()()。傷の上に美しい線を足すのも一興だ」


 私は堪えきれず声を上げた。


「な、何バカなこと言ってるの……!」


 願いにも似た呟きが咳き込むようにこぼれる。

 コンクリ床へ落ちた涙が乾く音すら聞こえそうな沈黙が続く。

 ルシアンは顎を掻きながら、背後の巨大キャンバスを指さした。そこにはまだ一筆も入っていない漆黒の余白が広がっている。


「正直、今のまま塗っても面白くない。お前がセラフじゃないなら、別の証明を見せろよ。──死に向かわせる俺の術式に、どう抗う?」


 私は唇を噛み、足元で光る魔術陣を見下ろす。

 鎖はまだ冷たく、首筋の金属が脈動に合わせて微かに締まる。

 逃げ場などない。それでも脳裏を掠めるのはハディートの言葉──「選ばない自由を自分で握れ」。自由など残っていない状況でも、選び取れる手段が必ずある。


 胸の奥に浮かび上がった詩句は、震えで言葉にならない。けれど声帯まで上がってきた衝動は確かに熱を帯び、空気を震わせた。


「ルシアン……あなたの美しい死って、本当にあなたのためのもの?」


 喉から漏れたその問いが、鎖のこすれる音よりもはっきり室内に響いた。

 男の黒い瞳が、わずかに細められる。


「ほう?」

「もしデザインと言うなら、あなたが観客席に降りた瞬間、その美しさは完成しなくなる。……あなた自身が素材に触れた時点で、観測者でいられなくなるんじゃ……ない……の……?」


 声は途中でかすれた。けれど詩的構文に似た言葉の連なりが魔術陣へ波紋のように走ったのを感じた。小さく、ほんの僅か。鎖の光が一瞬ゆらりと揺れる。

 ルシアンの口角が上がった。


「へぇ……今のは法則外の旋律か? いいね、もっと見せろ。観測者を揺らすなら、器じゃなく魔術師としての声を上げてみせろよ」


 彼はリードを放し、手の甲で顎を支えながら後ろへ一歩下がる。私を試すような距離。

 鎖はまだ解けないけれど、首にかかった束縛がわずかに緩んだのを感じた。呼吸が通り、喉の奥に冷たい空気が流れ込む。


 ──時間を稼げる。詩を紡ぐ余地が残った。

 ハディートが教えた願いと言葉の持ち替え方を思い返し、震える唇で次の一節を探す。

 遠くで、誰も敲くことのない扉が風鳴りした気がした。背筋に走ったざわめきは、外部からの気配か私の恐れか。

 だがどちらであろうと、あと一言。

 この鎖を裂くのに必要な詩は、確かに私の中で芽吹き始めていた。

(最近評価が増えて嬉しい……。元ネタになっているBarにも来てね。私がいる時であれば一杯奢ります。事前にXのリプかDMで答え合わせしていただけると助かります……)

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