41.ラナンキュラスの揺れる朝
夜明け前の窓辺に指先を置き
たった今目覚めた夢の青を
薄膜のまま掬い上げる
――まだ脱ぎきれない影
――選びきれない祈り
胸の奥で波打つ水音が
鼓動と重なり 形にならず濁るたび
私は言葉を細い針に変え
願いと恐れの継ぎ目を縫いとめる
『誰かのために』
『私のために』
雫となり 布目をすり抜け
ひとつの雲を編み上げる
朝焼けはまだ遠く
カーテンの裾が静かに揺れるだけ
けれど今 確かに灯る小さな熱を
凪いだ水面の真ん中へ落としてみる
波紋はゆっくりと輪を広げ
名前を持たぬ私の輪郭を撫でていく
――決壊でも 充溢でもなく
ただ 次の舞台へ進むための
微かな前奏
*
四月――窓から差しこむ陽ざしが少しだけ柔らかくなり、庭のユキヤナギが白い綿のように揺れていた。
ゆるく寝ぐせを残したまま階段を下りると、ダイニングにはもう朝食の名残だけが残っていた。
食器はすべて洗い上げられ、テーブルの真ん中には黄色いラナンキュラスの小さな一輪挿し。ハディートとリガルディーはソファに腰を落ち着け、食後のコーヒーを啜っていた。
ハディートの膝には丸くなったムート。その前脚にはスマホがすっぽり載せられ、画面を見つめる黒い耳がぴくぴく揺れている。
「おっ、これいいんじゃない?」
画面をタップしながら、ハディートがいたずらっぽく声を上げた。
「にゃっ!」
ムートは即座に短く鳴いて抗議する。尻尾がムチのように翻り、どうやら「それは違う」という意思表示らしい。
「お前の好みを聞いているわけじゃないんだよ」
ハディートは苦笑しながら、次の候補へスワイプする。だがムートは納得いかないらしく、前脚でスマホを押し戻した。
リガルディーが湯気の立つマグを卓に置き、慣れた調子でため息を漏らす。
「全く……朝から選考会とは熱心ですね。……あぁ、朱音さん、おはようございます」
「おはようございます。えっと……マスターは何をしてるんですか?」
私が近寄ると、ムートがちらりと振り向き、小さく「うにゃ」と訴える。
ハディートはスマホを頭上に掲げ、満面の営業スマイル。
「朝ソープにいい女の子いないかなー、ってな」
「えぇ!? 朝っぱらから何をやろうとしてるんですか。セラフについて調べないんですか?」
思わず声が裏返る。ムートまでもが「ふにゃあ」と呆れた鳴き声を上げた。
「いやいや、人間観察だよ。接客業に潜入すれば願いの粒度がわかる。昼間より朝のほうが素の客層が多いから統計が取りやすいんだ」
「統計……」
「つまり必要なフィールドワークってやつさ。セラフを探るにも、人の願いと欲望の平均値を把握しておくのは基本だろ?」
もっともらしい理屈を並べながら、ハディートは検索結果を拡大しては縮小している。画面にはカラフルな店舗バナーと過剰なハートマーク。
ムートは再びスマホを引っかき、まるで「この情報は不適切」とでも言うようだ。
「それ、ムートが止めてるんですし、やめた方がいいんじゃ……」
「こら協力しろ、猫。お前も男だろう」
「にゃぅっ!」
「マスター、ムートは精神年齢が十代後半程度と言っても、生物学的には猫なので――」
リガルディーが苦笑しながらフォローを試みるが、ハディートは耳を貸さない。
「大丈夫大丈夫。資料集めさ。終わったらちゃんと論文書くから」
四月の光はカーテンに透け、テーブルのラナンキュラスを淡く照らし出す。
朝から浴びせられた必要なことという言い訳に、私はどう返事をするべきか一瞬迷ったが――結局、深い溜息とともに微笑むしかなかった。
「あ、ラガヴーリンを一本。昨夜で空いたから補充しておいて。それじゃ、僕はぷりんちゃんと遊んでくるね」
マスターはご機嫌な様子で家を後にした。
なんか地雷そうな名前の子選んでるけど大丈夫かな……。
玄関の扉が閉まると家じゅうが静まり返った。
私は湯気の抜けたマグを両手で包み、ソファの向かいに腰を下ろす。ムートは憮然とした顔のまま、ハディートが残した体温を探すようにクッションへ丸くなった。
「マスターって……いつもあんな感じなんですか?」
我慢していたため息が言葉になって漏れる。
リガルディーは苦笑し、眼鏡のフレームを指先で押し上げた。
「ふしだらそうなおじさんに見えるかもしれないけど、実際は違うんですよ」
「どこが!?」
思わず声が裏返る。 ハートマークだらけの店を統計と呼び、猫にも協力を要求する大人のどこがまともなのか。
しかしリガルディーは真面目なまなざしで首を振った。
「あの人は――良くも悪くも魔術にしか興味がない。性欲のはけ口として使っているわけじゃなく、あれも儀式の一環なんだ」
「儀式……?」
「十九世紀末に体系化された性魔術の分派があってね。生命エネルギーや快楽を媒介に、意思を世界へ刻印する技法をやろうとしているんだ。そこで重要なのは嘘の混ざらない願いを採取すること。だからこそ一線級の接客業――素の欲望が露出しやすい場所を観測として使う」
「つまりマスターの行動は全部儀式の準備?」
「もっと日常的なデータ収集だね。あの手の店では客も嬢も願いをむき出しにする。そこで交わる欲望の波形を読み取り、いざという時の式に組み込む。本人は肌感って呼んでいるけど」
湯気越しにムートが「にゃ」と短く鳴いた。猫ながら、その説明には半分だけ納得したようだ。私はカップを持ち上げ、深い茶褐色を覗き込む。
「……でも、人を巻き込む危険はないんですか?」
「天賦の魔術師……ハディート様は見極められる」
リガルディーの声色が真剣へ切り替わる。
「昔、自分の召喚魔術で人を死なせた。だから二度と破滅を再現しないと誓っている。宴を開いても、必ず術式を外に漏らさない歯止めを仕込む。今朝の検索も安全圏で観測するための場所選びにすぎない。……まぁ、ソープ嬢には説明できないけどね」
苦い笑いが二人の間にこぼれた。
私は湯を口に含み、舌に残る甘さを転がす。奔放さと裏を支える理念が薄い茶の層のように重なって浮かぶ。
「天賦の魔術師――。私も付いていけるよう努力しないと、ですね」
そう言うと、リガルディーが柔らかく頷く。
「えぇ。朱音さんも可変の盾を選んだ以上は学ぶことになりますからね」
カップを置き、私は立ち上がる。テーブルのラナンキュラスが揺れ、窓辺には春の陽ざし。
――マスターのだらしなさの裏側に張り巡らされた緻密な魔術。
その真意を測るには、私自身が器を超えて目を開くしかないのかもしれない。




