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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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41/54

41.ラナンキュラスの揺れる朝

夜明け前の窓辺に指先を置き

たった今目覚めた夢の青を

薄膜のまま掬い上げる


  ――まだ脱ぎきれない影

  ――選びきれない祈り


胸の奥で波打つ水音が

鼓動と重なり 形にならず濁るたび

私は言葉を細い針に変え

願いと恐れの継ぎ目を縫いとめる


  『誰かのために』

  『私のために』

  雫となり 布目をすり抜け

  ひとつの雲を編み上げる


朝焼けはまだ遠く

カーテンの裾が静かに揺れるだけ

けれど今 確かに灯る小さな熱を

凪いだ水面の真ん中へ落としてみる


波紋はゆっくりと輪を広げ

名前を持たぬ私の輪郭を撫でていく

――決壊でも 充溢でもなく

ただ 次の舞台へ進むための

微かな前奏



*


 四月――窓から差しこむ陽ざしが少しだけ柔らかくなり、庭のユキヤナギが白い綿のように揺れていた。

 ゆるく寝ぐせを残したまま階段を下りると、ダイニングにはもう朝食の名残だけが残っていた。

 食器はすべて洗い上げられ、テーブルの真ん中には黄色いラナンキュラスの小さな一輪挿し。ハディートとリガルディーはソファに腰を落ち着け、食後のコーヒーを啜っていた。


 ハディートの膝には丸くなったムート。その前脚にはスマホがすっぽり載せられ、画面を見つめる黒い耳がぴくぴく揺れている。


「おっ、これいいんじゃない?」


 画面をタップしながら、ハディートがいたずらっぽく声を上げた。


「にゃっ!」


 ムートは即座に短く鳴いて抗議する。尻尾がムチのように翻り、どうやら「それは違う」という意思表示らしい。


「お前の好みを聞いているわけじゃないんだよ」


 ハディートは苦笑しながら、次の候補へスワイプする。だがムートは納得いかないらしく、前脚でスマホを押し戻した。

 リガルディーが湯気の立つマグを卓に置き、慣れた調子でため息を漏らす。


「全く……朝から選考会とは熱心ですね。……あぁ、朱音さん、おはようございます」

「おはようございます。えっと……マスターは何をしてるんですか?」


 私が近寄ると、ムートがちらりと振り向き、小さく「うにゃ」と訴える。

 ハディートはスマホを頭上に掲げ、満面の営業スマイル。


「朝ソープにいい女の子いないかなー、ってな」

「えぇ!? 朝っぱらから何をやろうとしてるんですか。セラフについて調べないんですか?」


 思わず声が裏返る。ムートまでもが「ふにゃあ」と呆れた鳴き声を上げた。 


「いやいや、人間観察だよ。接客業に潜入すれば願いの粒度がわかる。昼間より朝のほうが素の客層が多いから統計が取りやすいんだ」

「統計……」

「つまり必要なフィールドワークってやつさ。セラフを探るにも、人の願いと欲望の平均値を把握しておくのは基本だろ?」


 もっともらしい理屈を並べながら、ハディートは検索結果を拡大しては縮小している。画面にはカラフルな店舗バナーと過剰なハートマーク。

 ムートは再びスマホを引っかき、まるで「この情報は不適切」とでも言うようだ。


「それ、ムートが止めてるんですし、やめた方がいいんじゃ……」

「こら協力しろ、猫。お前も男だろう」

「にゃぅっ!」

「マスター、ムートは精神年齢が十代後半程度と言っても、生物学的には猫なので――」


 リガルディーが苦笑しながらフォローを試みるが、ハディートは耳を貸さない。 


「大丈夫大丈夫。資料集めさ。終わったらちゃんと論文書くから」


 四月の光はカーテンに透け、テーブルのラナンキュラスを淡く照らし出す。

 朝から浴びせられた必要なことという言い訳に、私はどう返事をするべきか一瞬迷ったが――結局、深い溜息とともに微笑むしかなかった。


「あ、ラガヴーリンを一本。昨夜で空いたから補充しておいて。それじゃ、僕はぷりんちゃんと遊んでくるね」


 マスターはご機嫌な様子で家を後にした。

 なんか地雷そうな名前の子選んでるけど大丈夫かな……。


 玄関の扉が閉まると家じゅうが静まり返った。

 私は湯気の抜けたマグを両手で包み、ソファの向かいに腰を下ろす。ムートは憮然とした顔のまま、ハディートが残した体温を探すようにクッションへ丸くなった。


「マスターって……いつもあんな感じなんですか?」


 我慢していたため息が言葉になって漏れる。

 リガルディーは苦笑し、眼鏡のフレームを指先で押し上げた。


「ふしだらそうなおじさんに見えるかもしれないけど、実際は違うんですよ」

「どこが!?」


 思わず声が裏返る。 ハートマークだらけの店を統計と呼び、猫にも協力を要求する大人のどこがまともなのか。

 しかしリガルディーは真面目なまなざしで首を振った。


「あの人は――良くも悪くも魔術にしか興味がない。性欲のはけ口として使っているわけじゃなく、あれも儀式の一環なんだ」

「儀式……?」

「十九世紀末に体系化された性魔術の分派があってね。生命エネルギーや快楽を媒介に、意思を世界へ刻印する技法をやろうとしているんだ。そこで重要なのは嘘の混ざらない願いを採取すること。だからこそ一線級の接客業――素の欲望が露出しやすい場所を観測として使う」

「つまりマスターの行動は全部儀式の準備?」

「もっと日常的なデータ収集だね。あの手の店では客も嬢も願いをむき出しにする。そこで交わる欲望の波形を読み取り、いざという時の式に組み込む。本人は肌感って呼んでいるけど」


 湯気越しにムートが「にゃ」と短く鳴いた。猫ながら、その説明には半分だけ納得したようだ。私はカップを持ち上げ、深い茶褐色を覗き込む。


「……でも、人を巻き込む危険はないんですか?」

「天賦の魔術師……ハディート様は見極められる」


 リガルディーの声色が真剣へ切り替わる。


「昔、自分の召喚魔術で人を死なせた。だから二度と破滅を再現しないと誓っている。宴を開いても、必ず術式を外に漏らさない歯止めを仕込む。今朝の検索も安全圏で観測するための場所選びにすぎない。……まぁ、ソープ嬢には説明できないけどね」


 苦い笑いが二人の間にこぼれた。

 私は湯を口に含み、舌に残る甘さを転がす。奔放さと裏を支える理念が薄い茶の層のように重なって浮かぶ。


「天賦の魔術師――。私も付いていけるよう努力しないと、ですね」


 そう言うと、リガルディーが柔らかく頷く。


「えぇ。朱音さんも可変の盾を選んだ以上は学ぶことになりますからね」


 カップを置き、私は立ち上がる。テーブルのラナンキュラスが揺れ、窓辺には春の陽ざし。

 ――マスターのだらしなさの裏側に張り巡らされた緻密な魔術。

 その真意を測るには、私自身が器を超えて目を開くしかないのかもしれない。

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