4.恋も愛も一括りにしたら
今日のマスターは元気がない。いい歳なのにメンヘラになっている。
というのも、彼女に「逢いたい」と言ったら断られ、その後5時間連絡がないらしい。
その彼女というのは、「クリスティーナ」というフィリピン人。26歳。
誰もが金目的だろうと思ってしまうが、話を聞いているとそうでもないらしい。
「クリスティーナはな、カッコいい僕に惚れているんだ。金ではなく、僕とのベイビーが欲しいと言っている。あぁ、愛しのクリスティーナ……」
神を否定した人間がクリスティーナを愛している面白い構図だなぁ、と思ったが、本人は全く気にしている様子はない。
「ハディートを愛してるって言ってくれたんだよ。もう愛らしくて仕方ない。なのに、全然連絡返してくれない……」
「愛してるくらい誰だって言えますからね。あと、返信ないのって仕事してるだけじゃないですか?」
「なっ……冷めてるなぁ……」
5時間くらい返事なくたって普通だろう。平日の15時過ぎに連絡してすぐ連絡返せる人は、めっちゃ位の高い人か暇人しかいないんだよ。
50代でそんな恋愛ができて羨ましい限りだ。
「なんで君は恋愛に対してそんなに冷たいんだ」
「パターン化されているからつまらなくないですか? 飽きましたよ私は」
「飽きるほど恋愛してきたのか!? 僕は百戦錬磨してきたと思っていたが、そんな若くして強者のセリフを吐けるとは」
「腐っても詩人ですからね。男にも女にもモテるんですよ」
「はぁ……思ったより強いな君……。一目見てスタイルが良い変態だと思っていたが」
……それは褒めてないだろうと思ったが口にはしなかった。
間違っちゃいないんだけどね。悪い環境で育った奴は性癖が歪んじまうんだ。
――そのとき、店の扉が開いた。
音は静かだったが、足取りが重い。
一歩ごとに、なにかを引きずっているような足音。
現れたのは、スーツの上からロングコートを羽織った男。髪は乱れ、ネクタイは緩んでいる。
何より――目が、死んでいた。
「……いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
マスターが穏やかに迎えると、男はカウンター席に崩れ落ちるように座った。
「……ウイスキー、ストレートで」
「銘柄は?」
「……ラフロイグで」
「いい趣味してるね。恋に破れた男にはぴったりな酒だ」
「……分かるんですね。あの大魔術師が来るバーだからそれくらいは見抜けるのか」
「僕も魔術師だから、それなりには」
グレンケアングラスに注ぎ、チェーサーと一緒に客の前に置く。
男は間を置かず3口ほどで飲み干してしまった。
あぁ、これは死ぬ人間の飲み方だな。私とよく似ている。
彼はグラスを渡し、同じものを頼んだ。
「飲まなきゃやってられん……。あぁ、二人も飲んでいいですよ」
「ありがとうございます。じゃあ、我々は禁忌の酒でも飲むか」
「禁忌の酒?」
マスターが指を鳴らすと、その酒が宙に浮いてこちらにやって来た。
その名も「ドナ マリハナ カナビス」。例の葉っぱの絵が書かれており、明らかに怪しさしかない酒である。
「ん……もう酔ってるのか俺は。今、酒が宙に浮いていたような……」
「あぁ、ここではこれが普通だから。お客さんも少し飲んでみる? 飛べるよ」
ショットグラスに注ぎ、三人で一気に飲んでみる。
葉っぱ独特の甘い香りの中に、 リンゴとナシのフルーティーさが広がる。
美味しいには美味しいが、直感的にアブサンより危険を感じた。
なにか、酒とは違う感覚の酔いがある……。
「魔術にはこれくらいのエッセンスがないとな。恋の幻惑に近いふわふわとした感覚が得られる」
「こんなふわふわした恋愛ならどれだけ良かったものか……」
男は項垂れて大きくため息をついた。
そして、付き合っている彼女の話をポツリと話し始めた。
付き合って1年半で同居を始めたが、どうにも彼女との価値観が合わないとのことだった。
編集者として勤めているが、飲みも仕事と言っても理解してくれず切れられる。
家事を手伝っても「自分でやった方が早い」と取り上げられる。
これといって気に触れたつもりはなかったが突如怒る。
結婚を前提に付き合っていたが、相手に飽きが見える……とか。
「……まぁ、まだまだたくさんあるが、仕事に理解がないのは厳しいんだよ」
「編集者なんて、僕らみたいな変人らと話し合うのが仕事だからね。実際事務作業は3割くらいしかないが、それを分かってくれない人間は難しいな」
「その彼女のこと、今でも好きなんですか?」
彼は即答しなかった。ある意味、それが答えであろう。
「脚本の魔術師としては……一刻も早く分かれた方がいいと思うね。この状態ではいくら秘儀を使っても物語が続けられないからな」
「私も付き合い続ける意味ないと思うなぁ。だってそんな奴と付き合ってたってだるくない? なんも進展しないよ」
「いや、まぁ……一度は好きになった相手だから……」
「未練がましい。恋も愛も一括りにしたら先入観でしかないのに」
「この女……! マスター、こいつの首切れ!」
「全く、女の子って怖いねぇ。この子はいい詩は詠えるんだけどね」
小声で「客を怒らせるな」と言われた。
怒ったのは向こうの勝手だろう? 結末が決まっていることになぜそうグダグダやり合わなきゃいけないんだ。
納得はいかないが、こちらが折れなきゃいけない。そういう仕事だからだ。
「……続けたいなら続ければいいんじゃない? 責任は取れないけど」
「未来を変えられる力を本当に持っているというのなら、変えられるかもね――」
「お二人は悲観的ですね。もう29歳なんで、俺は逃げ場がないんだ……」
「男で29歳ならいくらでもリカバリー効くよ。君はクズじゃないからいい人は寄ってくる。願えばね」
「わりと周りは結婚してるから焦ってるんですが、30歳超えても結婚できますかね……?」
その言葉に、店内の空気が少しだけ、静かに沈んだ。
マスターがグラスを拭く手を止め、私に一度だけ目を向ける。
何かを促すでもなく、ただ「どうする?」と問うような視線だった。
私は小さく息を漏らし、指先でグラスを揺らした。
カナビスの香りが、心の隙間にじわりと染み込んでくる。
「できますよ、結婚。でも、それが幸福かどうかは誰にも分からないです。未来って、選べるように見せかけて結局何を諦められるかで決まってるんで」
男は黙ったまま頷く。
その目は、まだ諦めに馴染んでいないようだった。
「29歳で焦るのは分かる。でも、焦った先で掴む相手がまた息を詰まらせる相手だったら、君はまた同じ夜をここで過ごすことになる」
マスターの声は、相変わらず優しかった。
けれど、ほんの少しだけその声に熱があった。
クリスティーナのことを思い出しているのかもしれない。
「……じゃあ、どうすればいいんでしょうか」
男の問いは、まるで詩のようだった。
明確な疑問ではなく、ただ言葉にするしかなかった苦しさが溶け出していた。
「答えなんかないさ。酒と同じで、何を混ぜるか、どれだけ混ぜるか、どういう手で注ぐか……それだけの違いで、同じように見える恋はまるで違う味になる」
「……なるほど。バーテンダーらしい回答だ」
「君の恋は、まだ混ざってない。苦味だけが上澄みになってる」
「じゃあ、どうやって混ぜたら――」
「それを考えるのが、生き延びるってことだよ」
男は静かにグラスを見つめていた。
酔いで潤んだ目の奥に、わずかな火が灯っていた。
ラフロイグの残り香が、沈黙を柔らかく包む。
私は横からそっと言った。
「混ぜきれないうちは、ここで吐き出していけばいいですよ。私も、マスターも、そうやってこのバーに取り残されてるんで」
男はふっと笑みを見せた。
あぁ、大丈夫だ。
まだこの人は、壊れてない――