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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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39/54

39.Ashveilの灯り

10万字超えました! 長編は大変ですね……。

 ラガヴーリンの濃い香りがまだ揺れているカウンターで、タブレットを閉じたビンゴ先生が静かに口を開いた。

「君の立ち位置を決めようというのは、要するに――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 言葉は淡々としていたが、グラスの中で泡がはじけるかすかな音より重く響いた。

 私は背筋に冷たい筋を感じながら、視線をマスターへ向ける。


「セラフは願いの密度を探知する。それが高い場所や人は、彼にとって条件の揃った実験場になる。君は……自覚があるなしにかかわらず、近ごろ願いを集めすぎた」


 脳裏をかすめる――苛烈な願いを抱いた客、助けを求めて倒れ込んできた詩人、そして自分自身の小さな祈り。確かに、この数日で私の周りに集まった想いは尋常ではない。


「だったら、私が外に出なければいいんですよね?」


 そう言うと、マスターはかぶりを振った。


「完全に閉じこもればリスクは下がるが……逃げ続ければ、いつかもっと大きな劇場に引きずり出される。セラフは手段を選ばない」


 隣で大魔術師が燻製のナッツを齧りつつ笑う。


「自分の舞台を自分で選ぶか、連れ去られて演じさせられるか。物語はシンプルだ」


 私は無意識に指を組み、息を吸い込む。琥珀色のライトがグラスを透け、手の甲に淡く揺れていた。


「ここAshveilは結界で守られている。でも、それだけじゃ足りない」


 ビンゴ先生の視線が冷ややかに走る。


「君自身が狙われていると腹に据えて、立ち回りを決める必要がある」


 マスターが私の肩に手を置く。


「選択肢は三つだ。第一に——この店の中で客や情報を吸い上げる〈観測者〉として動き、前線は僕らに任せる。第二に——結界の外に出て囮になり、セラフの注意を引き受ける。ただし僕が同行する。第三に——どちらも取って、必要な時だけ外へ出る可変の盾になる。危険は高いが、自由度も高い」


 どの案にも容易な未来は見えない。

 それでも逃げ道ばかり探して胸が空洞になる感覚より、選ぶべき枝がある方がまだ呼吸しやすかった。


「……三でお願いします」


 告げると、大魔術師が口笛を吹いた。


「いいじゃないか。動く盾ほどドラマを生む存在はない」


 ビンゴ先生は小さく頷く。


「決まりだな。じゃあ必要な知識と最低限の護符は後で渡そう」


 マスターは微かに笑い、グラスを掲げた。


「君の選択に。この店の灯りが消えないことを願って――乾杯」


 グラスが触れ合う澄んだ音が、Ashveilの夜を深く染めていった。


*


 深夜一時――大魔術師とビンゴ先生が姿を消し、バーカウンターに並ぶのは洗い終えたグラスと、微かに残るピート香だけになった。

 マスターは帳簿を閉じ、照明を一段落とす。琥珀色の光がさらに柔らかさを増し、天井のファンが静かに回る音だけが店内に残った。


「お疲れ様。片付けは終わった?」

「はい。床もモップをかけたので大丈夫です」


 伝票バインダーを重ね、私はクロスを折りたたむ。

 選択肢を可変の盾で取ったあの瞬間から、胸の奥に小さな熱球が居座っている。

 興奮か不安か、自分でも測りかねる熱だ。


 真鍮の扉を閉めると、ひんやりした夜気が背広の襟元を撫でた。

 通りには人気がなく、商店街のネオンは既に落ちている。


「家まで歩こうか。風に当たれば少し楽だ」


 マスターの言葉に、小さく頷く。

 暗い舗道を二人の足音だけが進む。昼間の賑わいが嘘のように、吉祥寺は眠りの底へ沈んでいた。


 ふと、横を歩くマスターが上着のポケットをまさぐり、薄い護符を私に差し出した。


「簡易の緊急符だ。外で何かおかしい空気を感じたら、紐を引けば結界が膨らんで十秒は稼げる」

「ありがとうございます……」


 両手で受け取ると、紙片は体温より少し冷たく、指先に細い脈動のような気配が伝わってきた。

 頭では理解しているのに、足取りは次第に重くなった。もし可変の盾として外へ出たとき、あのセラフが真正面から現れたら――。

 思わず足を止めると、マスターも歩みを止めて振り返る。


「怖くなったか?」

「……正直に言うと、少し」


 夜の街灯が彼の横顔に淡い光輪を作り、その下で瞳がかすかな苦笑を浮かべる。


「怖いのは正しい。恐れを感じなくなったら、選択じゃなくて衝動になる。君はちゃんと選んだ。それが強さだよ」


 言い終えると、彼は歩き出す。私は肩の力を抜くように深呼吸をひとつする。

 やがて家が見え、窓辺に灯る柔らかな明かりが迎えてくれる。そっと鍵を回すと、ムートが玄関マットで丸くなったまま顔を上げた。


「ただいま、ムート」


 ころんと転がって足元へすり寄る黒猫を抱き上げると、胸のざわめきが少しほどけた。


 着替えを済ませ、ベッドに入る頃には午前三時近い。カーテンの隙間から月光が細く射し、天井に淡い影を描いている。

 枕元に置いた護符の紙が、ほんのわずかに夜風でそよいだ。


「あんなこと……言っちゃったけど、大丈夫かなぁ……」


 呟く声は自分でも驚くほど小さい。返事の代わりに、布団の中へ潜り込んだムートが喉を鳴らした。

 その振動を指先で感じながら瞼を閉じる。胸の奥の熱球はまだ残っている――けれど、猫の温もりとマスターの言葉が、その輪郭を柔らかく包んでいた。


 遠くで電車の始発がレールを鳴らす気配がして、意識はじわりと闇に溶けていく。

 怖さと期待、そのどちらも携えたまま、私は浅い眠りの入り口へ身を預けた。

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