38.変数はその手の中に
日が傾き始め、吉祥寺の街並みに夕焼け色が差し込む頃。
私とマスターは、ムートとリガルディーを家に残しAshveilへ向かった。
休日の商店街はゆるやかな熱気に包まれている。
マスターが肩掛け鞄を軽く揺らしながら歩幅を合わせた。
「出勤するの久しぶりだな」
「昨日までいろいろありましたからね」
思わず苦笑すると、彼は軽く首をすくめる。
ビルの壁に夕陽が反射し、横顔が橙に染まった。その目尻には、午睡から覚めたばかりのような、けれど確かな優しさが宿っている。
裏通りに入ると、レンガ壁に埋め込まれた真鍮の扉が現れた。
真っ白なチョークで「Fais ce que tu voudras」と走り書きされた扉は、夕闇を背に不思議と浮かび上がって見える。
マスターが鍵を回し、扉が軋む音とともに微かなオーク樽の香りが流れ出した。
照明を点けると、琥珀色の光がバーカウンターの鏡棚に跳ね、瓶のラベルをきらきらと照らす。
「じゃあ、準備始めるか。ちなみに、今日は坊主じゃないぞ。19時から予約が入っている」
声に振り向くと、マスターがネクタイを緩めながらいたずらっぽく笑う。
「大魔術師とビンゴ先生が来る日ですね?」
「そう。あの人たちが揃うと、店が一晩で研究室になる。今日は楽しい日だろうな」
彼はバックヤードの棚から高脚グラスを取り出し、指先で埃を払ってレンジ台に並べていく。私はクロスを手に取り、カウンターの天板を円を描くように磨いた。
ガラス越しにまだ薄紅の空が小さく覗く。
私は深呼吸し、胸の奥で小さく呟く――「今夜は無事に終わりますように」と。
けれど同時に、胸は高鳴っている。
大魔術師とビンゴ先生が揃う夜。きっと平穏ばかりでは済まないだろう。
それでも、マスターの肩越しに揺らめく琥珀色の光を見ていると、不思議と勇気が湧いてくるのだった。
開店まで残り五分。
私は最後のグラス磨きを終え、クロスを畳んでポケットにしまった。扉の向こうで足音が止まり、ノブが回る。
背筋を伸ばすより早く、マスターがカウンター越しに声を張った。
「遅いぞ。……で、どうしてセラフがここに来てたって分かっていたのに、僕に言わなかったんだ」
「おいおい挨拶くらいさせろって。面白くなる方を選ぶに決まってるだろ?」
扉を押し開けて現れた長身の大魔術師が両手を広げる。悪びれもせず笑い声を上げた。
その後ろからスーツ姿の痩身の紳士が入ってくる。銀縁の眼鏡を押し上げ、低い声で応じた。
「違うとは思っていたが、確信できる要素がなかった。憶測で動かすより、経過観察した方が妥当だと判断したんだよ」
ビンゴ先生はもっともらしいことを言っていたが、何となく大魔術師と同じ理由を言いたくなかったからだと察した。
そうでなければ、去り際にあんなこと言わないもの。
マスターは額を押さえ、深く息を吐く。
「……二人とも、性格が正反対なくせに同時に来ると倍に面倒だ。まぁ、楽しいからいいけども」
私は慌てて席へ案内した。大魔術師は窓際の一等席に腰を落ち着け、ビンゴ先生は隣のスツールへ無言で座る。
「注文をどうぞ」
トレーを抱えたままそう促すと、二人の声が重なった。
「ラガヴーリン。トワイスアップで」
「ラガヴーリン。ソーダ割で」
バックバーへ向かい、アイラモルトのボトルを抜栓する。ピートの薫香が立ち上り、空気の色まで琥珀に染める。トワイスアップ用のグラスには一対一で天然水を静かに落とし、薄く靄がかかるのを待つ。もう一方では冷えたソーダを細い泡の筋に変えてウイスキーへ注ぎ込んだ。
カウンターへ戻り、それぞれの前に滑らせると、大魔術師は鼻を近づけ満足げに目を細めた。
「うん、これだよ。凪いだ海で焚き火を囲むような香り」
マスターは腕を組んだまま、苛立ちを隠せない様子で口を開く。
「観察だとか面白いだとか――こっちは命が懸かってるんだ」
大魔術師は肩を竦ませて笑う。
「結果的に無事だったろ? 危険を前提に物語を進めるからこそ、劇は映える。お前だって昔はそう書いてたじゃないか」
その言葉にマスターの眉がぴくりと動く。
「……俺はもう脚本で人を殺すつもりはない」
カウンター内に張り詰めた静寂を破ったのは、ビンゴ先生の低い咳払いだった。
「議論は後にしよう。例の件、面白かったからデータは整理してある。セラフが最後に残した術式痕を持参した」
彼はタブレットを差し出す。そこに映る幾何学的パターンと数列は、私にはまるで見慣れない言語だったが、マスターは目を細め即座に読み取りに入った。
私はふっと息をつき、グラスクロスを取り出して手を動かす。ピート香と論理の匂いが絡み合い、店は早くも研究室の空気になっていた。今夜は無事に――そう願う間もなく、幕はすでに開いているのだと私は悟っていた。
「魔術師でもないのに、こんなこと調べて――暇人だなぁ……」
マスターがぼそりと吐き捨てる。
ビンゴ先生は眉ひとつ動かさず、液面を揺らしただけだった。
「脚本家は観客の行動も計算に入れるものだ。未知の演出が入ったら、台本を改訂する。それだけだよ」
「ご立派な理由だが、観客が焼け死んだら興行は終わりだ」
マスターの声にわずかな刺が混じる。
大魔術師が笑いを噛み殺し、指先でテーブルをとんとん叩いた。
「じゃあハディート、締め切りはいつだ? 改訂版を待ってるんだが」
「……夜が明けるまで、ここで書く。文句は言わせない」
その言葉にビンゴ先生が眼鏡を押し上げ、タブレットを私に向けた。
幾何学模様の下に、赤い注釈――変数:朱音が瞬く。
「君の立ち位置も、そろそろ決めないとね……」
低い声がそう告げた瞬間、店の灯りがひときわ深く琥珀に燃えた。




