表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

38/54

38.変数はその手の中に

 日が傾き始め、吉祥寺の街並みに夕焼け色が差し込む頃。

 私とマスターは、ムートとリガルディーを家に残しAshveilへ向かった。

 休日の商店街はゆるやかな熱気に包まれている。

 マスターが肩掛け鞄を軽く揺らしながら歩幅を合わせた。


「出勤するの久しぶりだな」

「昨日までいろいろありましたからね」


 思わず苦笑すると、彼は軽く首をすくめる。

 ビルの壁に夕陽が反射し、横顔が橙に染まった。その目尻には、午睡から覚めたばかりのような、けれど確かな優しさが宿っている。


 裏通りに入ると、レンガ壁に埋め込まれた真鍮の扉が現れた。

 真っ白なチョークで「Fais ce que tu voudras」と走り書きされた扉は、夕闇を背に不思議と浮かび上がって見える。


 マスターが鍵を回し、扉が軋む音とともに微かなオーク樽の香りが流れ出した。

 照明を点けると、琥珀色の光がバーカウンターの鏡棚に跳ね、瓶のラベルをきらきらと照らす。


「じゃあ、準備始めるか。ちなみに、今日は坊主じゃないぞ。19時から予約が入っている」


 声に振り向くと、マスターがネクタイを緩めながらいたずらっぽく笑う。


「大魔術師とビンゴ先生が来る日ですね?」

「そう。あの人たちが揃うと、店が一晩で研究室になる。今日は楽しい日だろうな」


 彼はバックヤードの棚から高脚グラスを取り出し、指先で埃を払ってレンジ台に並べていく。私はクロスを手に取り、カウンターの天板を円を描くように磨いた。

 ガラス越しにまだ薄紅の空が小さく覗く。

 私は深呼吸し、胸の奥で小さく呟く――「今夜は無事に終わりますように」と。

 けれど同時に、胸は高鳴っている。

 大魔術師とビンゴ先生が揃う夜。きっと平穏ばかりでは済まないだろう。

 それでも、マスターの肩越しに揺らめく琥珀色の光を見ていると、不思議と勇気が湧いてくるのだった。


 開店まで残り五分。

 私は最後のグラス磨きを終え、クロスを畳んでポケットにしまった。扉の向こうで足音が止まり、ノブが回る。


 背筋を伸ばすより早く、マスターがカウンター越しに声を張った。


「遅いぞ。……で、どうしてセラフがここに来てたって分かっていたのに、僕に言わなかったんだ」

「おいおい挨拶くらいさせろって。面白くなる方を選ぶに決まってるだろ?」


 扉を押し開けて現れた長身の大魔術師が両手を広げる。悪びれもせず笑い声を上げた。

 その後ろからスーツ姿の痩身の紳士が入ってくる。銀縁の眼鏡を押し上げ、低い声で応じた。


「違うとは思っていたが、確信できる要素がなかった。憶測で動かすより、経過観察した方が妥当だと判断したんだよ」


 ビンゴ先生はもっともらしいことを言っていたが、何となく大魔術師と同じ理由を言いたくなかったからだと察した。

 そうでなければ、()()()()()()()()()()()()()()()


 マスターは額を押さえ、深く息を吐く。


「……二人とも、性格が正反対なくせに同時に来ると倍に面倒だ。まぁ、楽しいからいいけども」


 私は慌てて席へ案内した。大魔術師は窓際の一等席に腰を落ち着け、ビンゴ先生は隣のスツールへ無言で座る。


「注文をどうぞ」


 トレーを抱えたままそう促すと、二人の声が重なった。


「ラガヴーリン。トワイスアップで」

「ラガヴーリン。ソーダ割で」


 バックバーへ向かい、アイラモルトのボトルを抜栓する。ピートの薫香が立ち上り、空気の色まで琥珀に染める。トワイスアップ用のグラスには一対一で天然水を静かに落とし、薄く靄がかかるのを待つ。もう一方では冷えたソーダを細い泡の筋に変えてウイスキーへ注ぎ込んだ。


 カウンターへ戻り、それぞれの前に滑らせると、大魔術師は鼻を近づけ満足げに目を細めた。


「うん、これだよ。凪いだ海で焚き火を囲むような香り」


 マスターは腕を組んだまま、苛立ちを隠せない様子で口を開く。


「観察だとか面白いだとか――こっちは命が懸かってるんだ」


 大魔術師は肩を竦ませて笑う。


「結果的に無事だったろ? 危険を前提に物語を進めるからこそ、劇は映える。お前だって昔はそう書いてたじゃないか」


 その言葉にマスターの眉がぴくりと動く。


「……俺はもう脚本で人を殺すつもりはない」


 カウンター内に張り詰めた静寂を破ったのは、ビンゴ先生の低い咳払いだった。


「議論は後にしよう。()()()、面白かったからデータは整理してある。セラフが最後に残した術式痕を持参した」


 彼はタブレットを差し出す。そこに映る幾何学的パターンと数列は、私にはまるで見慣れない言語だったが、マスターは目を細め即座に読み取りに入った。


 私はふっと息をつき、グラスクロスを取り出して手を動かす。ピート香と論理の匂いが絡み合い、店は早くも研究室の空気になっていた。今夜は無事に――そう願う間もなく、幕はすでに開いているのだと私は悟っていた。


「魔術師でもないのに、こんなこと調べて――暇人だなぁ……」


 マスターがぼそりと吐き捨てる。

 ビンゴ先生は眉ひとつ動かさず、液面を揺らしただけだった。


「脚本家は観客の行動も計算に入れるものだ。未知の演出が入ったら、台本を改訂する。それだけだよ」

「ご立派な理由だが、観客が焼け死んだら興行は終わりだ」


 マスターの声にわずかな刺が混じる。

 大魔術師が笑いを噛み殺し、指先でテーブルをとんとん叩いた。


「じゃあハディート、締め切りはいつだ? 改訂版を待ってるんだが」

「……夜が明けるまで、ここで書く。文句は言わせない」


 その言葉にビンゴ先生が眼鏡を押し上げ、タブレットを私に向けた。

 幾何学模様の下に、赤い注釈――()()()()()が瞬く。


「君の立ち位置も、そろそろ決めないとね……」


 低い声がそう告げた瞬間、店の灯りがひときわ深く琥珀に燃えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ