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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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37.静かな決意

 午後三時を少し回った頃、私たちはマスターの家へ戻った。

 玄関の扉を開けると、穏やかな空気と共にリガルディーが静かに迎えてくれた。


「お帰りなさいませ、お二人とも。良い時間を過ごされましたか?」


 リガルディーの柔らかな微笑みに、私はほっと心を落ち着けた。


「はい、とても素敵なお店でした」


 私が笑顔で答えると、足元から軽快な足音が聞こえ、ムートが勢いよく飛び出してきた。彼は私を見るなり、「にゃあ!」と甘えた声をあげながら、まっすぐに駆け寄ってきた。


「ムート、ただいま。待っててくれてありがとう」


 しゃがみ込んでムートを抱き上げると、彼は嬉しそうに喉をゴロゴロと鳴らしながら、頬を私の肩に擦りつけた。その甘えぶりに思わず頬が緩んだ。


「全く……お前は本当に甘えん坊だね」


 マスターはその様子を見ながら、呆れたような、しかしどこか優しい声で呟いた。


 ムートは一向に気にすることなく、さらに私の胸元に顔を埋めて甘えてくる。柔らかい毛並みが指先をくすぐり、温かさが胸にじんわりと広がっていく。

 そんな私たちのやり取りを横目で見ていたマスターが、小さくぼそりと呟いた。


「お前は猫でいいよな……」


 その言葉は静かな空気の中で微かな余韻を残した。

 私はちらりと彼の顔を伺った。マスターはいつもより少しだけ遠い目をして、どこか羨ましそうな表情を浮かべている。


「マスターも甘えたい時があるんですか?」


 からかうように私が問いかけると、マスターはわずかに頬を赤くし、少し動揺したように顔を逸らした。


「べ、別に……そういうわけじゃない。ただ、猫ってのは楽でいいよなって思っただけだ」


 そんな彼の様子に、私は思わず笑ってしまった。

 マスターが照れ隠しをするような姿を見るのは珍しく、なんだか新鮮だった。


「まぁ、確かにムートは自由気ままで羨ましいですよね」


 リガルディーもくすりと笑いながら、柔らかく言葉を添えた。

 ムートは何事もなかったかのように、私の腕の中で気持ちよさそうに目を閉じていた。

 私はそのままムートを抱きかかえたまま、一緒に廊下を歩いた。

 足元に柔らかな絨毯の感触を確かめながら、静かな空気をまとった玄関からリビングへと向かう。


 リビングに入ると、窓から差し込む午後の光が部屋を穏やかに満たしていた。

 リガルディーは自然な手つきでティーセットの用意を始めた。

 私はムートをそっと膝に乗せ、マスターと向かい合うようにソファに腰を下ろす。

 テーブルに並べられたカップからは、湯気とともに甘く香ばしい香りが立ち上っていた。

 リガルディーが静かに微笑みながらカップを差し出し、私はそれを両手で受け取った。

 ほっとするような温もりが掌に広がり、私はそっと紅茶をひと口すすった。


「……マスター、そういえばさっきセラフが私を狙っているって言っていましたよね」


 紅茶をひと口すすいでから、私はそっと切り出した。

 マスターは小さく頷き、湯気の向こうで静かに息を吐く。


「あぁ。セラフは――ただ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ、とだけは分かっている」


 声は穏やかなのに、言葉の奥底で刃が擦れるような硬質な響きがした。

 ムートが私の膝で丸くなり、尻尾を揺らしている。


「どういう……執着、なんですか」

「願いの原理を純粋な数式のように扱おうとするんだ。祈りも後悔も、人の生死さえ変数として書き換えられると信じているらしい」


 マスターは指先でそっとカップを回し、淡く反射する午後の光を見つめた。


「セラフが現れる場所には必ず条件がある。人が密集している、感情が高ぶっている、願いが交差している――そんな()に興味を示し、まるで実験するみたいに干渉してくる」

「じゃあ、私もその条件の中にいる……?」

「残念ながらそういうことだ。良くも悪くも……君に興味があるようだね」


 胸がひやりと冷え、無意識にムートを抱き寄せる。マスターはその仕草を確認し、言い淀むように視線を伏せた。


「……僕は、直接セラフと会ったことはない。だが、いくつかの魔術災害や未解決事件を逆算すれば、必ず同じ式の痕跡が残っていた。召喚でも詩でもない、もっと冷酷な構造理論の爪痕だ」


 リガルディーが静かに頷き、「監察局も正体を掴めておりません」と補足する。


「だったら、対策は――」

「簡単じゃない。だが条件を満たさせないことはできる。ここは結界で守られているし、君が無闇に外へ出なければ手を伸ばしにくい」


 ゆっくりと言い聞かせるような口調。私はふと気づく。マスター自身もまた、どこかで怯えている。セラフを知らないが故に抱く底知れぬ恐怖――それを悟られまいと、穏やかな声色で包み隠しているのだ。


「もう一回聞きますけど……私が家に留まるのは、本当にマスターの負担になりませんか?」

「むしろ心配が減る。僕のそばにいる限り、君を守る術を持っているから。バーも強固にプロテクションをかけ直したから、問題なく働けるぞ」


 即答だった。迷いをはさむ余地もなく、ただ静かな決意だけが響く。

 私は頷き、胸の奥でそっと息を押し出した。ムートがタイミングを読んだように「にゃあ」と鳴き、私の指を舐めた。小さな温もりが、張り詰めた心をわずかに溶かす。

 マスターはソファの背にもたれ、遠い窓明かりを見つめた。


「セラフが次にどこへ、どんな式を置くのかは分からない。ただ――」


 そこで言葉を切り、彼は私へ視線を戻す。柔らかな午後の光が琥珀色の瞳に映り込み、優しいが揺るぎない火を宿していた。


「君を狙おうとする度に、僕がノイズになってみせる。願いを数式に還元するやり方が通用しないほど、複雑で矛盾した物語を横から書き込んでやるさ」


 その語り口は静かな宣戦布告だった。リガルディーが小さく目を伏せ、微笑の奥で敬意を滲ませる。

 時計の秒針が一つ進む。窓の外で、夕立前の風が軒先の葉をそっと揺らした。

 私の胸の奥にも、その風と同じ揺らぎが広がる。

 ――恐れるだけではなく、隣に立つ強さを今は信じてみよう。


「分かりました。私になりにできることを探します」


 そう言うと、リガルディーが静かに紅茶を注ぎ足した。湯気は穏やかに天井へ昇り、午後と夕暮れの境目で柔らかな灯を編んでいった。

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