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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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36.甘い予感

 ムートに小さく頬を叩かれて目が覚めた。窓から差し込む淡い朝の光が部屋を優しく照らしている。


「ん……ムート?」


 寝ぼけた声で呟くと、ムートは再び「にゃあ」と鳴き、私の腕を前足で軽く引っ掻いた。


「はいはい、わかったよ……朝ご飯だね」


 ベッドから起き上がり、ムートに導かれるように階段を下りてリビングに向かうと、既にリガルディーがテーブルを整えていた。


「おはようございます、朱音さん。よく眠れましたか?」

「おはようございます。はい、おかげさまで」


 リガルディーが温かく微笑み、テーブルには焼きたてのパンや新鮮なサラダが並んでいた。私は席に着き、ムートも椅子の横に静かに座り込んだ。

 朝食を食べ始めて間もなく、玄関の扉が慌ただしく開く音がした。すぐに、やつれた表情のハディートがリビングに入ってきた。


「お帰りなさい、マスター」


 私が声をかけると、マスターは深いため息をつきながら椅子に座り込んだ。


「ただいま……もう二度とあんなところ行きたくない……」


 マスターの口調は力なく、どこか弱々しかった。

 私は少し驚いたが、リガルディーを見ると慣れた様子で小さく苦笑した。


「ハディート様、紅茶をお淹れいたしますね。お疲れでしょう」

「頼む……本当に酷かったんだ。監察局の奴らは一言もまともに聞きやしない。延々と同じ質問の繰り返しだよ……」


 ハディートが両手で顔を覆い、ぐったりとテーブルに突っ伏した。ムートが彼の足元に歩み寄り、優しく身体を擦りつける。


「大変でしたねマスター。でも、無事に戻ってきてくれて良かった」


 私はそう言って、そっとマスターの背中を撫でた。彼は深く息を吐き、疲れ切った瞳で私を見上げた。


「……ありがとう。君たちがいてくれて、本当に良かった」


 マスターの言葉に胸が温かくなる。私は微笑みながら、朝の静かな光の中で紅茶の香りが漂うのを感じていた。

 ……そんな中、ふと気になったことを口にした。


「そういえば、なんで監察局が嫌いなの?」


 マスターは顔を上げ、やや複雑そうな表情を浮かべた。


「えっ、まぁ……いろいろあったからな」


 曖昧な答えに、私は首を傾げる。するとリガルディーが控えめに微笑んで口を開いた。


「端的に言えば、創設者の()()()()()と最初っから仲が悪いのですよ。魔術決闘して向こうが負けたのに、ハディート様を追い出しましたし」

「魔術決闘……?」


 私が驚いて尋ねると、リガルディーは少し照れくさそうに肩をすくめた。


「互いに召喚魔術で戦うという……なんともカオスな戦いをしたのですよ」


 彼の不満げな様子に私は思わず小さく笑い、好奇心が募った。


「メイザースって……一体どういう人なの?」


 私がさらに尋ねると、マスターは渋い顔をして呟いた。


「しょうもない魔術師の端くれだ」


 リガルディーが微笑みながら補足した。


「すごい人ではあるんですよ。()()()()()()()()()()()()()()。中央魔術監察局を創設した張本人で、魔術の近代化に貢献した人物です。近代魔術体系を体系化した功績もありますし、現代の魔術理論の基礎を築いたいわば始祖と言いますか」


 リガルディーが説明すると、マスターは面倒そうに手を振った。


「たかが知れているから覚えなくていい。あいつのことなんかどうだっていいんだよ」


 その言葉には何か複雑な感情が潜んでいるように感じられ、私はそれ以上踏み込むことを控えた。

 少し沈黙が流れた後、マスターが突然顔を上げた。


「あぁ、そういえば、今日の午後ちょっと一緒に出かけないか?」


 突然の提案に私は目を丸くした。


「え? どこへ?」


 マスターはわずかに微笑んで答えた。


「君に見せたい場所があるんだ。少し気分転換にもなるだろう」


 彼の瞳には、先ほどまでの疲れた表情とは違う柔らかな光が宿っていた。

 その光に胸が温かくなる。戸惑いつつも、私はその提案が嬉しくて小さく頷いた。


「はい、ぜひ!」


 自分でも驚くほど素直な声が出た。

 心の奥に広がるのは、不安よりも、彼と一緒に過ごせることへの小さな期待だった。


 出かける支度を整えていると、ふとムートが少し離れた場所からこちらを見つめているのに気づいた。

 琥珀色の瞳には、普段見せない切なさが宿り、小さく「にゃあ」と呟くように鳴いた。

 まるで、自分だけ取り残されることを惜しんでいるかのようだった。


 午後になり、私はマスターに連れられて三鷹に向かった。

 街並みは静かで穏やかで、木漏れ日が柔らかく降り注いでいる。


「どこに行くんですか?」

「……すぐに分かるよ」


 マスターは微笑みながらそう答え、私を細い路地へと導いた。

 しばらく歩いたところで、小さなクレープ屋が見えてきた。


「ここだよ、『ラ クレープリー』」


 お店の前には、小さくてかわいい看板が掲げられている。

 窓越しには楽しげな雰囲気が溢れ、店内から甘い香りが漂ってきた。


「わぁ、素敵なお店ですね」


 私が目を輝かせると、ハディートは満足そうに笑った。

 店内に入り、二人でテーブル席に腰掛けると彼はメニューを広げた。


「おすすめは何?」


 私が尋ねると、マスターはしばらく考え込んだ後、指で一つを指した。


「キャラメルクレープが絶品だよ。一度試してみてほしい」

「じゃあ、それにします」


 注文を終えると、少しの間、店内の静かなざわめきに耳を傾けた。程なくして運ばれてきたクレープは香ばしく焼き上げられ、見るからに美味しそうだった。

 一口食べてみると、香ばしいキャラメルの甘さとホイップの風味が口いっぱいに広がった。


「美味しい!」


 思わず声を上げると、マスターが嬉しそうに頷いた。


「良かった。君に喜んでもらえると、来た甲斐がある」


 穏やかな時間が流れ、クレープを食べながら、ふと彼が真剣な顔で私を見つめていることに気づいた。


「実は、君にはしばらく私の家にいてほしいんだ」


 その言葉に驚いて手を止める。


「どうして?」


 マスターは少し言いにくそうに口を開いた。


「セラフが君を狙っているようなんだ。正確な目的は分からないが、安全のために、しばらく家から離れないほうがいい」


 彼の真剣な表情に、私の胸は小さく締め付けられた。


「……分かりました。でも、迷惑じゃありませんか?」


 マスターは私の問いに静かに首を振った。


「迷惑なわけない。むしろ、君を守ることができるなら、安心だよ」


 その言葉には強い決意が込められていて、私の不安を和らげた。


「ありがとうございます、マスター」


 マスターは優しく微笑み返し、再び穏やかな時間が流れ始めた。

 甘いクレープの香りに包まれながら、私は彼の側にいる安心感を強く感じていた。

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