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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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35/54

35.心を撫でる夜

 夕食を済ませ、私は軽く伸びをした。


「ごちそうさまでした」


 リガルディーが微笑んで食器を片付け始めるのを横目に、私は立ち上がって浴室へ向かった。ふと気づくと、足元にムートがそっと寄り添うように歩いている。


「ん? どうしたの、ムート。お風呂に入りたいの?」


 ムートは琥珀色の瞳で私を見上げ、小さく鳴いた。その視線は、まるでこちらの内心を静かに見透かすような不思議な温かさを帯びている。

 浴室の扉を開け中の照明を点けると、ムートは悠然と先に中へ入ろうとした。


「ちょっと待った」


 私は慌ててムートを抱き上げた。柔らかな黒い毛並みが手のひらに心地よく触れた。


「いくら猫だとしても、あなたの中身はレイでしょ? ……だから、私が脱いでるとこなんて見せられないよ」


 ムートは私の腕の中で不服そうに小さく鳴き、抗議するように私をじっと見つめる。


「文句を言ってもダメ。ここで待ってて」


 私はムートを優しく廊下に置き、洗面台のドアを静かに閉めた。ドア越しに小さな足音が聞こえる。彼は仕方なく去ったようだった。

 ため息をつきながら服を脱ぎ、鏡の前で髪をほどきながら自分の姿をじっと見つめた。

 右肩の付け根から腰にかけて、薄く残る傷跡がまだある。あの事故――私が一度死んだ証だ。


「死んだはずなんだけどな」


 服を脱ぎ終え、湯に足を入れた。じんわりと熱が体に染み込み、緊張がゆっくりとほどけていく。


「あぁ……」


 私は静かに息を吐いた。湯の中で目を閉じると、再び足元でムートが抗議した小さな鳴き声を思い出した。

 彼は単なる猫ではない。レイの精神を宿した存在。そして、レイ自身もまた、一度死んだ人間だ。

 同じ、なのかもしれない。私も彼も。いや、魔術師は死んだ人間が元になっていると言っていたから皆そうなのかもしれない……。

 そう考えると、胸の奥に不思議な感情が生まれた。それは共感のようで、悲しみのようで、どこか懐かしいような――言葉では掴めない感情だった。

 湯の表面を軽く叩き、小さな水音を立てる。


「……いろいろ複雑だなぁ」


 浴室の湿った空気の中で、私はぼんやりと呟いた。


 風呂から上がると、私はふんわりとしたタオルで身体を包み、洗面所の曇った鏡を指でそっと拭った。

 ぼんやりと映る自分の顔は、いつもよりどこか幼く見える気がした。濡れた髪を軽く絞りながら、扉をゆっくりと開ける。

 廊下にはムートが待ち構えていたように座っていて、私が姿を現すなり「にゃあ」と短く鳴いた。


「ちゃんと待ってたんだ。偉いね」


 微笑んでそう言いながらしゃがみ込むと、ムートは私の足元に擦り寄ってきた。柔らかい毛並みを撫でてあげると、満足げに喉をゴロゴロと鳴らし始める。

 部屋に戻ると、私はベッドに座り、ムートを膝の上に乗せた。彼は居心地良さそうに丸まると、再び静かに喉を鳴らしながら目を閉じた。


「あなた、やっぱりちょっと特別よね……レイの一部なんだもん」


 独り言のように呟きながら、私はムートの頭をゆっくりと撫でる。その感触はあまりに温かく、穏やかな安心感が胸に広がった。

 すると扉がノックされ、小さな音を立てて開かれた。


「失礼いたします、朱音さん」


 リガルディーが柔らかな微笑みを湛えながら現れた。手には小さなトレイがあり、その上にはハーブティーが入ったカップが乗っていた。


「少しお話をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「もちろん、どうぞ」


 私は少し体を起こし、ベッドの端に座るように促した。リガルディーは礼儀正しく一礼すると、ベッドの端に腰掛け、トレイをベッドサイドの小さなテーブルに置いた。


「ハディート様が戻られるのは、明日の朝になるかと存じます。中央魔術監察局の件が片付きそうとのことでしたので」

「そうなんですね……」


 リガルディーの穏やかな口調とは裏腹に、その言葉の端に不安が滲んでいるような気がした。


「朱音さんにはご心配をお掛けしたくないのですが、ハディート様はいつも無理をされる方で……」

「知っています。でも、彼はきっと大丈夫ですよね?」


 リガルディーは優しく微笑んで頷いた。


「えぇ、きっと。ですが、少しだけ心配で……彼の支えになる方が必要なのだと、私は思っています。私自身は長い間ハディートさまをお支えして参りましたが、それでも彼が内側に秘めているものまでは完全に理解できないのです。きっと、それは私には越えられない壁のようなものでしょう。ですが朱音さんであれば、その壁を乗り越えて彼の本当の支えになれるのかもしれません」」


 リガルディーの言葉は静かで控えめだったが、その瞳は真摯で強い意志を宿していた。

 私はその視線を受け止め深く頷く。


「私にも、できることがあれば……」


 リガルディーは満足げに微笑んだ。


「朱音さんのお気持ちだけで十分です。今夜はゆっくりお休みください。何かございましたら、いつでもお呼びください」


 リガルディーが去った後、私はハーブティーをゆっくりと飲みながらベッドにもたれかかった。ムートは変わらず膝の上で穏やかな寝息を立てている。

 外からは夜の静かな気配が伝わってくる。私は目を閉じながら、静かに心の中で呟いた。

 明日、マスターが無事に戻ってきますように……。

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