34.赦しの食卓
リガルディーの話を聞き終えた後、私はしばらく何も言えなくなってしまった。
それは単に驚いたとか困惑したとか、そういう簡単な感情ではなかった。
うまく言葉にできない、身体の奥深くに沈む冷たい鉛のような感覚がじわりと広がっていた。
魔術で人間を作る――そんな途方もない話が、目の前で普通に語られている。
レイがそのようにして生まれた存在だなんて、どうして信じられるだろう。
でも、同時に私は心のどこかで既にそれを認め始めていることにも気づいていた。
私自身もまた、一度死んだ。
そして誰かの願い――誰かの意志によって再び命を与えられた。
そのことを思い出すと、胃の奥が締めつけられるような感覚に襲われた。
私も、同じなのだろうか……。
たったひとつの事故をきっかけに、生きている世界が大きく揺らいだ。
日常に戻ったと思い込もうとしていたけれど、結局、私は戻りきれていないのかもしれない。
だって、私が今こうしているのは――。
私は無意識に、自分の胸元をぎゅっと掴んでいた。
その瞬間、ベッドの隅から「みゃぁ」と小さく声がした。
ムートが再びするりと私の横に寄ってきて、じっと顔を覗き込んでいる。
その目は相変わらずの琥珀色で、どこか不思議な深さがあった。
「……どうしたの?」
私は声をかけたが、ムートは返事の代わりに、まるで私の考えを見透かすような目をしている。
この猫、本当に人の気持ちを読んでいるのだろうか。
「君も何か知ってるの?」
冗談めかして問いかけたのに、なぜか声が震えた。
ムートはふっと目を細め、まるで「分かっているよ」とでも言いたげな仕草をした。
胸の奥でざわりと小さな風が吹いたように感じる。
私は再びリガルディーを見た。彼は何かを察したのか、私の視線を優しく受け止めるように微笑んだ。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい……すみません。ちょっと、色々驚いてしまって……」
平気なふりをして笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
私は何を聞きたかったのだろう?
『私もまた、レイのように創られた存在なのですか?』
それとも、『私を生き返らせたのは誰ですか』?
どちらの問いも、まだ口に出す勇気がなかった。
何かを確信することが、怖かった。
そんな私の躊躇いを見透かすように、ムートはすっと私の膝に上がってきて、器用に丸くなった。
まるで私に何かを伝えようとしているように、じっと顔を見上げてくる。
――『知りたいのかい?』
声が聞こえた気がした。
けれどそれは、ムートが口にしたわけではない。
ただ、目と目が合った瞬間に、胸の中に不思議な言葉が浮かんだだけだった。
まさか……ね。
でも私は、少しだけ身を乗り出して小声で訊いていた。
「……知っているなら、教えてよ。私もまた、誰かの願いによって『創られた』のかな?」
リガルディーは気づいていないようだった。
けれど、ムートの瞳が一瞬悲しげに陰ったように見えた。
――やっぱり、この猫はただの猫じゃない。
ムートは静かに瞬きをしたあと、小さく喉を鳴らした。
それは肯定でも否定でもないようで、ただ静かな沈黙を誘う仕草だった。
私は息を吐いて背をベッドに沈め、天井を見つめた。
答えは、簡単には出ないのかな……。
思考がまとまらない。
自分が何者なのかを知らずに、どうやってこれから生きていけばいいんだろう。
でも、確かなことは一つだけあった。
レイは、自分が誰に作られた存在だと知らずに日々を普通に楽しそうに生きている。
だとすれば、知らないままの方が幸せなのかもしれない。
頭の隅で理性がそう囁く。
でも、心はその答えを受け入れきれずにいた。
ふと、ムートが私の膝の上から降りて軽やかに階段を下っていった。
その小さな後ろ姿を眺めながら、私は胸の奥のざわめきを押し込めるようにゆっくりと息を吐いた。
「……ムートが行ってしまいましたね」
リガルディーが静かに微笑んで言った。私の戸惑いを和らげるような優しい口調だった。
「多分、夕飯が食べたいんでしょうね。あの子、時間感覚は不思議と優れているので」
「そうなんだ……」
「朱音さんも降りましょうか。身体も休めないといけませんし、温かいものでも食べれば少しは気分が落ち着くでしょう」
そう言って立ち上がったリガルディーは、穏やかな目で私を見た。その口元には少しだけ苦笑めいた優しさが浮かんでいる。
「考えすぎても仕方ありませんからね。ほら、行きましょう」
「あ、はい」
私は慌てて立ち上がり、彼のあとを追うようにして廊下に出た。
リガルディーと並んで階段を下りる。足元の踏板が小さく軋み、木の感触が私を現実に引き戻していく。
ふっと視線を落とすと、階下で待ち構えていたムートがちらりとこちらを見上げ、小さく鳴いた。まるで、「遅いぞ」と文句を言っているかのように。
「はいはい、今行きますよ」
リガルディーが笑いながら応える。私もつられて小さく笑った。さっきまでの重苦しい雰囲気が、少しだけ薄れていくのを感じた。
階段を降りきったところにあるリビングのドアを開けると、温かなオレンジ色の灯りが目に入った。ささやかながらもどこか懐かしさを感じる室内には、木製のテーブルに白い皿やスープ皿が並べられ、料理のいい匂いがふんわりと漂っている。
「さ、座ってください」
リガルディーが席をすすめ、私も遠慮がちに椅子に座った。
ムートはというと、すでに自分の定位置らしい椅子にちょこんと座って、こちらをじっと見つめている。どうやら自分の分の食事が出てくるのを待っているようだった。
「ムートも一緒に食べるんだ」
「えぇ、彼も大切な家族ですからね」
リガルディーはそう言って、キッチンから手早く料理を運んできた。温かいパンと具沢山のスープ、簡単なサラダ。決して豪華ではないけれど、なんだかほっとするメニューだった。
「どうぞ、召し上がってください。遠慮なく」
「ありがとうございます」
スプーンを手に取り、スープを口に運ぶ。濃厚な味わいと柔らかな温かさが、胸の奥にあった冷たい鉛のような感覚をゆっくり溶かしていくようだった。
ムートも自分の器に盛られたカリカリを満足げに口に運んでいる。食べる様子は普通の猫そのもので、さっきまでの妙に人間じみた仕草が嘘みたいだ。
リガルディーは、パンをゆっくりちぎりながら、ふと優しく口を開いた。
「……朱音さん、無理に急ぐ必要はありません。あなた自身が納得できるまで、ゆっくりと答えを探せばいいんです」
突然の言葉に私は思わず顔を上げた。彼の瞳はとても穏やかで、私の戸惑いをすべて見透かしているような温かさがあった。
「この家では、誰もあなたを急かしたりはしませんから」
私は小さく頷きそっと息を吐いた。胸の奥の不安が、ほんの少しだけ和らいでいく気がした。




