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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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32.呼ばれぬ名に宿るもの

 まぶたの裏が、ゆっくりと光を孕んでいく。

 指先にかすかな感覚が戻り、喉の奥に乾きが滲んだ。

 まるで深い水底から浮かび上がるように、私は意識の輪郭を取り戻していった。


 ――目を覚ましたとき、そこは見知らぬ天井だった。


 暗色の天蓋がかけられたベッド。織の細かいカーテン。

 壁には古い魔術式が彫り込まれているが、すでに力は抜けていて飾りに近い。

 客間――そう呼ぶのがふさわしい静謐な空間だった。


「……お目覚めですね、朱音さん」


 静かな声が室内に満ちた。

 振り返ると、ひとりの男が立っていた。

 やわらかく茶色がかった髪に、どこか曖昧な光を宿した瞳――まるで煙水晶のような、深くも透けたような色合いだった。

 彼は優雅に一礼すると、穏やかに微笑んだ。


「私はリガルディー。この家の管理と、ハディート様の秘書兼監視を務めております。どうぞお気を楽に」


 その声音には一切の敵意も探るような色もなかった。

 ごく自然な礼節と、ほのかな親しみが滲んでいる。


「……ここは、マスターの家……?」


「はい。ハディート様があの場所から直接転送しておりました。意識を失っておられましたが……体調はいかがですか?」


 私は、身体を少しだけ起こす。

 不思議と痛みはない。ただ、夢と現の境界線がまだ曖昧だった。


「……マスターは?」


 その問いに、リガルディーは少しだけ眉尻を下げて笑った。


「今朝、中央魔術監察局(CIO)へと向かいました。例の事件の目撃者なので二日は戻れないかと」

「二日も……」

「えぇ。あの人、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 リガルディーの声に、どこか家族にも似た優しさが滲んだ。

 それは、ハディートの裏も表も知っている者だけが持つ距離感だった。


「もちろん、朱音さんはしばらくこちらでお休みいただいて構いません。必要なものがあればお申しつけください。……あ、食事のタイミングなども、お気になさらず」


 私の目を見て、彼は少しだけ語調を落とした。


「……悪い夢を見ていたようでした。何かあれば、すぐにお呼びくださいね」

「うーん……まぁ、不思議な夢を見ていたよ」


 寝起きの声でぼそっとつぶやくと、リガルディーは穏やかな笑みを浮かべたまま応えた。


「そうですか。それは……現実より少し優しかったですか? それとも、意地悪でしたか?」

「どっちだったんだろうね……なんか、両方」


 私はベッドの端に腰を移しながら、まだぼんやりとする頭を軽く振った。

 夢の記憶が、まだ脳の裏側でぬるく揺れている。


「そういえば、リガルディーさんって……ハディートといつから一緒にいるんです?」


 私の問いに、彼はあくまで丁寧に、しかしどこか懐かしむような声音で答えた。


「私が20歳のときからですね。彼がCIOを……まあ、いろいろあって事実上の()()になった時期に、付き添うような形で任務が切り替わりまして」

「出禁って……本当にあるんだ、そういうの」

「えぇ、厳密には協働拒否という扱いでした。形式上は、彼が自ら距離を置いたという形になっています。実際は……あまりにも彼が倫理に背く行為ばかりしていたので、皆さん怒って追い出した感じでしたが」


 リガルディーは軽く肩をすくめた。


「まぁ、それからずっと一緒なので、かれこれ17年近い付き合いですね」

「はへー……17年……」


 思わず、間の抜けた声が出た。


「ってことは……水道橋事件の前から知ってるんだ……」


 小さく呟いたつもりだったのに、リガルディーの眉がわずかに動いた。


「えぇ。その頃も傍にいました。……彼が()()()()に触れてしまった時期ですね」


 言葉を選ぶように口にしたあと、彼はそっとカップに湯を注いだ。

 香ばしいハーブの香りが部屋に広がっていく。どこか沈みがちな話題を、少しだけ遠ざけてくれるような優しさだった。


「……ハディート様が朱音さんのことを気に入っている理由、なんとなく分かる気がしますよ」


 リガルディーが、私を見てやわらかく微笑んだ。

 その目はどこまでも静かで、だけど何かを悟っているようにも見えた。

「どういう意味ですか?」私はカップを両手で包んだまま訊いた。


「朱音さんの中には、他の人とは違う温度があるんです。……あの人は、そういうのにとても敏感ですから」


 温度――その言い方が少しだけ引っかかった。

 でも、言い換えただけなのかもしれないと思いそれ以上は突っ込まなかった。


「そうなんですね……。でも、ちょっと不思議で」


 私は小さく息を吐いて、テーブルの木目を指でなぞった。


「この前、私が倒れたとき……初めて名前を呼んでくれたんです。『朱音』って」


 その瞬間の声を、私ははっきりと覚えている。

 静かで、でも確かに私を呼ぶ声だった。

 あの人が、ちゃんと私を個人として見てくれた気がして――少し、安心した。


「……そうでしたか」


 リガルディーは少しだけ目を伏せて、そしてすぐに穏やかな声で返した。


「それ以外のときはずっと君とか、お嬢さんとかで。……なんで名前で呼んでくれないんでしょうね?」


 聞きながら、自分でも少し不思議だった。

 普段のやりとりのなかで、それが寂しいと感じたことはなかったのに。

 あの一言だけで、逆に気になってしまった。

 リガルディーは少しだけ黙って、それからやさしく目を細めた。


「……それは、おそらく言葉の重みを知っているからじゃないでしょうか」

「重み……?」

「はい。ハディート様にとって、名前を呼ぶというのは……ただの呼びかけじゃないんです。特別な意味を持つこともあるし、時には境界を越えるきっかけになる。だからこそ、簡単には呼ばないんでしょう」


 彼の声はとても静かで、丁寧で――まるで私の心を撫でるようだった。

 何かをはっきりとは言わず、でも、ちゃんと納得できるような形で差し出してくれる。

 ……本当の理由は別にあるんだろう。

 だが、今はそれ以上聞く気にはなれなかった。


「……そっか」


 私は少しだけ笑った。自分でも、ちゃんと笑えていたかは分からない。

 ただ、ようやく心の中のひっかかりが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。

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