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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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31/54

31.橋上の分岐点

 視界がじわじわと闇に飲まれていく。耳鳴りが、世界の縁を塗りつぶすように広がっていった。

 何かが叫んでいた。誰かが名前を呼んでいた気がする。だけど、それすらも遠くてもう思い出せない。


 ――そして、私は気づけば橋の上にいた。


 辰巳桜橋。

 夕暮れよりも濃い時間帯、夜と呼ぶにはまだ早い。

 静まり返ったその場所は、風すらもひっそりと通り抜けるだけだった。

 私は、橋の中央にしゃがみこんでいた。

 その両手で顔を覆い、声を殺しながらただ泣いていた。


 左手に広がる湾岸の光がやけに遠く感じられる。

 開発の進んだ煌びやかなタワー群。ガラスの反射。眠らない都市の証。

 けれど右手を見れば、取り残されたような団地や学校、路地裏のように雑然とした町並みが、かろうじて街灯の明かりに照らされていた。


 私の小さな身体は、その両極を繋ぐようにただ静かに佇んでいる。

 まるで、自分がどちら側にも属せないのだとでも言うように。


 そのとき、足音が聞こえた。

 コツ、コツ、と革靴がアスファルトを叩く音。


「……こんな場所で泣いていると、風に攫われるよ」


 声は静かだった。だが、どこか懐かしい響きがあった。

 私は静かに顔を上げる。目元は涙で濡れていた。

 橋の端から、ひとりの男が近づいてきていた。

 黒髪と黒のロングコート。肩の力が抜けたような歩き方。

 それでいて、瞳の奥に宿る光だけはまるで夜そのものを映しているかのようだった。

 その紫水晶のような目は、一度見たら忘れられない。


「あなたは……」


 声を震わせながら問いかけた。

 男は微笑んだ。優しさとも、皮肉ともつかない笑みだった。


「また逢ったね。君を心より愛す者……ウェイトさ」


 私は顔を上げ、唇を震わせたまましばらく言葉を探していた。

 何をどう言えばいいのか分からなかった。

 ただ、胸の奥に張り付いたあの光景がどうしても離れてくれなかった。


「……今日、目の前で事故があったの」


 声に出すと、改めてそれが現実だったと突きつけられるようで胸が詰まった。


「並んでた人たちの列に、急に車が突っ込んできて……」

「……うん」


 ウェイトは小さく頷いた。その顔に動揺はない。ただ私の話に耳を傾けていた。


「誰かが叫んでて……私、何もできなかったのに……それでも、身体が勝手に動かなくて……」


 言葉が途切れた。声を張るほどに、涙も一緒に溢れそうになった。

 あのときの衝撃、タイヤが跳ね上げた水しぶき、砕けたガラス、誰かの名前を呼ぶ声。全部、全部が戻ってきた。


「……思い出しちゃった。昔の事故……私が、死にかけたときのこと」


 ウェイトは黙って、橋の欄干に片手を添えたまま、夜の湾岸を見つめていた。

 風が彼の黒いコートをゆっくりと揺らす。けれど、その姿は一切の動揺を見せない。

 彼は、私の髪を撫でながら穏やかに返した。


「それは――怖かったね」


 その声は、あまりにも優しかった。

 あまりにも自然で、あまりにも完璧な共感に思えた。

 それ故に、どこか空虚なものが胸を撫でていった。


「でも大丈夫。君は今、ここにいる。あのときも……きっと、君の中で何かが『帰ってきたい』って思ったんだろうね」


 私は息をのんだ。

 その言葉に、深く反応した自分がいた。

 それは願いだったのだろうか。執着だったのだろうか。

 あの時、壊れた身体でそれでも生きようとしたのは――


「……どうして、そんな風に言えるんですか」


 問いかけた声には、わずかに疑念と揺らぎが混ざっていた。

 ウェイトは目を細めた。


「私は少しだけ……人の願いを信じてるからね」


 そう言って、彼は微笑んだ。

 その笑みはあまりにも人間らしくて――けれど、やはりどこか作られた仮面のようでもあった。

 私はまだ震える指先を見つめながら、そっと口を開いた。


「……私、やっぱり……おかしいんでしょうか」


 消え入りそうな声だった。

 ウェイトは答えず、欄干にもたれたまま夜空を仰いだ。

 月の光が彼の紫水晶のような瞳に淡く反射し、どこか別の時代を映しているかのようだった。


「君はさ……」

「……はい」

「もし、あの夜の選択を――()()()()()としたら、君はどうする?」


 その問いに、肩がわずかに跳ねた。

 問いかけは穏やかだったが、胸の奥に深く沈んだ棘のように刺さってくる。


「……やり直すって、どういう意味?」

「君は、あの時……確かに死んだんだよ」


 ウェイトは静かに言った。

 思わず息が止まった。心臓が高鳴る音だけが身体に残された実感のようだった。


「でも、誰かの強い願いによって君はこの世界に引き戻された。……その願いが、君自身の自由を奪っていたとしたら?」


 風が吹き抜け、月が光の輪郭を細く削る。


「……それって……私が生きてること自体が、誰かの所有物みたいなものだってこと……?」


 ウェイトは少しだけ寂しそうに笑った。

 だが、その目は変わらず深く静かだった。


「君の中には、いくつかの選択肢がある。生きることを受け入れる道もある。あるいは、起きる前の夜に戻ることも理論上は可能だ」


 私は静かに顔を上げる。胸の奥に、波紋のようなざわめきが広がっていた。


「……死ぬ、ってこと?」

「違うよ」


 ウェイトは首を横に振った。


「もっと曖昧で、もっと静かな選び直し方だ。例えば――()()()()()()()()()()という選択肢も、夢の中でなら試すことができる」

「……そんなの、意味あるんですか?」

「それを判断できるのは、君だけだよ」


 答えは、いつも内側にある――そう言わんばかりの声だった。

 私は目を伏せた。

 風がふたたび髪を揺らす。夜はまだ終わらない。

 そして、ウェイトはそっと身をかがめ、私の耳元で囁いた。


「君が選ばされる前に、選ぶ練習をしておこう。この夢の中なら、何度でも――やり直せる」


 ……しばらく考えたが、私は答えられなかった。

 このまま夢に逃げてしまえば、痛みも、過去も、マスターの苦悩も、すべて無かったことになる。

 でも、目の前のこの「心地よすぎる世界」が、本当に自分の居場所なのか――それは、どうしても言い切れなかった。


 夢の中の私が、ふと立ち尽くす。

 図書館の静けさも、クラスのざわめきも、いつしかすべて遠のいていく。

 目の前の景色が滲み、色を失っていくように感じた。


 その時、背後から声がした。


「……大丈夫。分からないなら選ばなくていい。君はまだ、完全な魔術師じゃないから」


 ――ウェイトだった。


 けれど、その姿はもうはっきりとは見えなかった。

 光と闇の狭間に立つような彼は、どこか悲しげな顔で微笑んでいた。

 そして、彼の指先がそっとこちらに伸びたかと思うと――世界が崩れた。


 桜の花びらがひとひら私の頬を撫でる。

 それはまるで、誰かの指が「起きなさい」と合図しているかのようだった。

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