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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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29.夢まぼろし

 グラスの氷が、静かに溶けていく音だけが響いていた。

 マスターは、グラスを眺めながらそれ以上言葉を発さなかった。

 琥珀色の沈黙だけが店を包んでいた。

 やがて、大魔術師が椅子の背にもたれたまま、重い溜息をついた。


「……嬢ちゃん、悪いな。今夜はこれで失礼するよ」

「え……あ、はい……」


 私は反射的に立ち上がりかけた。

 けれど大魔術師は、静かに手を振った。


「気にすんな。……今夜の酒は、ちょっと効きすぎたみたいだ。ビンゴ、お前も行くぞ」


 言葉とは裏腹に、彼の表情には微かな違和感があった。

 迷いのような、確信のような――言葉にできないなにかが。

 そのすぐ後を追うように、ビンゴ先生も立ち上がる。

 グラスを指先で軽く叩いてから、静かに言った。


「面白い夜だったよ。……でも、そういう夜には()()()()()()()()()()

「……?」


 彼はそれ以上言わなかった。

 ただ、煙草を取り出して扉の方へ歩きながら小さく振り返る。


「また来る」


 ドアベルが小さく揺れ、ふたりの背中が夜に溶けていった。


 ――私はこの夜に取り残された。

 なんだろう、この違和感は。どこか……何かが噛み合わない気味悪さがずっと心に残っている……。




 ……カラン。

 ドアベルが再び鳴った。

 私は反射的に顔を上げた。

 マスターがまだ店にいるはずだった。

 けれど、視界の中にいた彼の姿は――最初から何もなかったかのように消えていた。

 扉がわずかに軋み、夜の深さを連れて、()()()()――()()()()()()()()()()()()

 黒い薄手のコートを羽織ったその姿は見慣れたもので、仕草も、歩き方も、声さえも確かに彼そのものだった。

 しかし、そこには妙な軽さがあった。さっきまでの沈んだ気配とはまるで違う。不自然なほど上機嫌だった。


「戻ったよ……おや? 客が三人もいたのか。あぁ、一応言っておくけど、忙しかったらちゃんと呼んでよ? さっきまで抜きやってもらってただけだから」


 のんきな声と同時に、マスターは肩を軽く回しながら伸びをした。

 そして、置かれたグラスをどこか間延びした仕草で私に手渡していく。


 私は息を呑んだ。

 そのグラス――確かに()()()()が飲んでいたものだ。

 いや、()()()()()()()()……?

 さっきまでそこに座って、セラフについて語っていた……誰か。

 私の思考はそこで止まってしまった。理解が追い付かない。

 整理しようとしても、頭の中で言葉が滑っていく。

 意識が、脳の奥のどこかで遅延しているみたいに。

 さっきのマスターは? 今、目の前にいるマスターは?

 一体どちらが――何だったのか。


「……君はなんで固まってるんだ? あぁ、そうか、肌艶が良くなって美しくなったからか?」


 マスターは軽口を叩いてくる。普段通りの調子だ。

 いや、普段以上にふざけているようにすら見えた。


「まぁ~今日のお姉ちゃんは手も舌遣いも完璧で、おじさんですらガッチガチに……」

「そ、そんなことはどうでもいいんですが……! あ、あの……」

「……惚れちゃった?」

「全然違います! さっき、マスターそこに座ってたじゃないですか!」


 私は思わず叫ぶようにして言った。

 混乱と焦りとかすかな恐怖が、喉元にせり上がってきていた。

 マスターは一瞬、目を瞬かせた。


「……何を言っているんだ?」

「バーボン飲んでたじゃないですか。あの席で。私と、先生たちと、三人で……!」


 マスターは首をかしげ、少し困ったような笑みを浮かべた。


「ん? なんか……似てる奴でも来たのか?」


 その言葉を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。

 似てる――? まさか。

 あれは、完全に()()()()だった。


「似てる? ()()()()がそこに座って、ずっとセラフについて語ってたんですよ!」


 言葉が震えた。

 私の記憶の中で、あの夜の沈んだ声が、冷たいバーボンの匂いとともに甦る。

 なのに、目の前のマスターはまるで知らないと言う。

 全然、話が噛み合わない。

 マスターは数秒沈黙したのち、ゆっくりとグラスを持ち上げた。


「……複雑怪奇なことが起きているな」


 グラスの縁に鼻を寄せ、残り香を確かめる。

 その瞬間、マスターの目がわずかに細まった。

 手の動きが止まる。

 そして、静かに低く問いかけた。


「……そいつは、いつ帰った?」

「帰ったというか……マスターが来たら消えちゃったというか……」


 私は言いながら、自分の語っている内容がどこか夢のようで、信じがたいものに思えてきた。

 でも、あれは夢なんかじゃなかった。

 確かに、そこにいたのだ。


 マスターは、グラスをコトリと置いた。

 その仕草には、明らかな焦りが滲んでいた。

 口調も、空気も、さっきまでとは別人のように鋭くなっていた。


 そのときだった。

 ――声が聞こえた。

 言葉でも音でもない。頭の奥に直接、焼き付けられるような感触。


『ヨドバシ前に来てごらん――』


 冷たい刃のような響きだった。


 私は思わず息を呑んだ。

 どこかで聞いたことがあるが、誰の声だったかは思い出せない。

 でも、知っている。

 私の奥底に、確かにそれは刻まれていた。

 マスターは、テレパシーの残響が去る前に立ち上がっていた。

 目は鋭く、氷のように冷たい光を宿している。


「……()だ」


 迷いのない確信が、その声にはあった。

 今の声の主が誰なのか――マスターには、すぐに分かったのだ。


「閉めるぞ。すぐ出る」


 私は返事もできず、ただ頷いた。

 体が、自分の意思とは関係なく動いていた。

 マスターが灯りを落としドアを閉めたとき、Ashveilはまるで深い夢から目覚めたように静まり返った。


 夜の街へ、私たちは走り出した。

 ……ヨドバシ前。

 そこに行けば、何かが待っている。

 ――それが、さっき私の前で語っていた『マスター』であることに、疑う余地はもうなかった。

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