28.琥珀色の沈黙
……と、そのときだった。
扉の向こうで、わずかに気配が揺れた。
誰も動かない。
けれど、誰もが気づいていた。
カランと、ドアベルが小さく震えた。
夜の外気が流れ込み、琥珀色の空間にわずかな冷たさを連れてくる。
逆光の中、男の影が立っていた。
薄手の黒いコートに無造作な髪。
俯き加減の横顔はどこか無防備で、けれど踏み入れがたい雰囲気を纏っている。
マスター――ハディートだった。
マスターは無言のまま、コートを脱ぎ無造作に椅子に掛けた。
ポケットからタバコを取り出しかけてふと躊躇い、また仕舞う。
火を灯すには今夜の空気はあまりにも脆すぎた。
私は、カウンター越しにマスターを見た。
目は開かれているのに、彼の意識だけがまだどこか遠い場所を彷徨っているようだった。
それでも、マスターは微かに微笑んだ。
それは、壊れた世界をもう一度拾い上げようとする人間だけができる、ほんのわずかな笑みだった。
「今日は客として飲むか……。ブラントンブラック、ストレートで」
変わらぬ声。それだけが夜の空気に滲んだ。
「……はい」
私は応えた。
手がほんの少しだけ震えていた。
マスターのためにグラスをひとつ取り出す。
琥珀色のバーボンを注ぐと、そっと差し出した。
マスターはそれを受け取り、無言で一口飲んだ。
静かだった。
言葉も、針の落ちる音さえも、すべて夜に溶けていった。
マスターはゆっくりと視線を上げた。
私を、大魔術師を、ビンゴ先生を――ひとりひとり順に見た。
何も訊かなかった。
けれど、すべてを知っていた。
誰も、何も、言わなかった。
ただ静かに、彼の罪と、私たちの沈黙が、同じ夜の下で重なった。
……それだけだった。
グラスに満たされたバーボンを、マスターはじっと見つめていた。
まるで、底なしの湖を覗き込んでいるように。
ここでは沈黙こそが対話だった。
だから私は、ただ待ち続けた。
やがて、マスターはゆっくりと息を吐き、低い声で語り始めた。
「……セラフのことを、少し話そうか」
誰にともなくそんなふうに。
「奴は……やはり外から来た存在だ」
私は息を飲んだ。
けれど口を挟まなかった。
それが、この店のやり方だからだ。
「この世界じゃなかった。生まれた場所も、時間も、思想すら違う……。あいつは、人間を知らなかった。知ろうとしたが理解できなかったんだ。人間の願いってやつを」
マスターはグラスを傾けた。
琥珀色の液体が、ランプの明かりを受けてきらめく。
「……祈ること、願うこと。それは本来矛盾だらけだ。叶わなくても祈るし、失っても願う。……でも、セラフはそれが許せなかった」
指先でマスターはグラスの縁をなぞった。まるで、遠い昔の記憶をなぞるように。
「奴にとって願いはエラーに過ぎなかった。結果に辿り着かない祈りなんて、構造的に欠陥品だった。だから――作ろうとした。願いを必ず叶える存在を」
そこに、わずかな苦味が滲んだ。
「……無理矢理だろうと、代償を払わせようと、構わなかった。願ったなら、その対価を差し出させて必ず結果を与える。完璧な因果律に従う『器』を」
マスターはふっと笑った。
それは哀しみに近い笑みだった。
「理屈だけなら確かに正しかったんだ。……だけど、そこに誰かはいなかった」
私は、胸の奥に冷たいものが落ちるのを感じた。
……誰か。
そこに誰かがいなかった――?
マスターは続けた。
「生きているんじゃない。ただ……願いを受け取り、叶え、代償を刈り取るだけの……存在」
言葉を選びながら彼は語った。
何かを必死で隠すように。
それでも、心のどこかでは滲み出してしまうように。
「……当時は僕も信じてた。この世界を新たな力で救えるかもしれないと」
静かに、マスターは目を閉じた。
「でも、救われたのは世界じゃなかった。あいつが作ったものは、世界を救う道具じゃない。ただ……人間らしさを捨てさせる装置だった」
私は静かに拳を握った。胸の奥で、言葉にならない痛みが蠢いた。
「祈ることも、迷うことも、選ぶこともない。ひたすら願われたことに応えるだけ。命じられるがまま、代償を取り立てるだけ。……そんな存在が、世界を救えるわけがなかったんだ」
マスターの声は少し震えていた。
「僕は……それに気づくのが遅すぎた」
静かだった。
誰も何も言わなかった。
ただ、Ashveilの奥で、レコードのかすかな針音だけが回り続けていた。
「セラフは間違っていた。あいつ自身はそれを理解できなかった。人間は矛盾している。願いは構造にならない。それを認めたら、自分自身が否定されるから」
あまりにも寂しく静かに笑った。
「……だから、あいつはまだ探している。願いを完全に構造化できる存在を。完璧な器を」
その言葉に、私はかすかに身を震わせた。
理由は分からなかった。
だが、心の奥でなにかが軋んだ。
マスターは、ふっとグラスを回した。
氷が、鈍い音を立てる。
「セラフにとって、願いは祝福じゃない。あいつにとって、願いは……命令だ」
沈黙。
冷たい夜。
琥珀色のランプだけが、私たちを優しく照らしていた。
「けど――」
マスターは、わずかに声を低くした。
「どんなに精密に作ろうと、どんなに理屈で固めようと、願いというのはいつだって……破綻するんだよ」
私は、知らぬ間に呼吸を止めていた。
「心っていうのは、誰にも作れやしない。……どんな天才でも、どんな神でも、な」
その声は、悲しみでも怒りでもない、もっと深い名前のない感情だった。
私は、静かに目を伏せた。
マスターの言葉が、胸の奥に深く深く沈んでいった――




