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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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27.災厄の権化

 午後十時。

 Ashveilに灯りを入れると、琥珀色のランプがひとつ、またひとつ、静かに目を覚ました。


 昨日の夜の記憶――南の女王に出会った夜の温度が、まだこの店にはうっすらと残っていた。

 私はカウンターに布を滑らせながら、傷の一つ一つをなぞる。何度も磨いているのに消えない微かな染み。それは、かつて誰かが交わした言葉の名残かもしれなかった。


 レコードに針を落とすと、深い霧のようなサックスの音が店内を満たす。

 マスターはまだ戻ってこない。

 どこにいるのかは知らない。ただ、それでもこの扉を開けて帰ってくる――そんな確信だけが胸の奥に灯っていた。


 ドアベルが揺れ、夜をひとしずく破った。

 最初に現れたのは、大魔術師だった。白いシャツに整った髪、背負うものを隠しもせずに、重たい足取りでカウンターへと歩み寄ってくる。


「よぉ、開いてたか」


 私は頷き、彼のための定位置に手を差し出す。

 マスターはまだだと伝えると、大魔術師はふっと口元を緩め、椅子に身体を沈めた。


「知ってるさ。今夜はな――アイツの昔話をしに来たんだ。いない時の方が話しやすいからな」


 その声は、懐かしさと少しの苦味を含んでいた。

 すぐに、二度目のドアベルが続く。

 低く笑いながら、ビンゴ先生が現れた。皺のない薄いシャツに夜気の匂いを纏って。

 彼の視線はいつも温度を持たず、ただ真実を測る天秤のようだった。


 ビンゴ先生は無言で大魔術師と目を交わし、私に向かってごく簡単に注文を告げた。


「ラフロイグ」

「ウンダーベルグかな。あと、一杯好きなの飲んでいいよ」

「ありがとうございます」


 私は静かにグラスを取り、それぞれ好み通りに作っていく。

 ラフロイグはトワイスアップ。ウンダーベルグはソーダ割。

 その音さえも、夜の深みに吸い込まれていった。


 この静けさを知っている。

 誰かが、これから語りはじめる夜だということを。

 忘れられない何かが、またこのAshveilの空気に刻まれるのだということを。

 グラスを差し出したとき、大魔術師がふと目を細め煙の向こうから私を見た。



「なぁ嬢ちゃん。アイツ――ハディートの昔の話……どれだけ知ってる?」

「どれだけって……お二人から聞いた話以外はこれといって……」

「面白いこと教えてやろう。ハディートはな、魔術災害の一つである『水道橋事件』を引き起こした本人だ――」


 ――水道橋事件。

 当初はメディア各社大騒ぎしていたのにもかかわらず、突如として続報が流れなくなったのは覚えている。魔術がらみは規制されやすいからそういうことだろうとは子供ながら思っていたが。

 水道橋自体は半壊し、近くにある東京ドームや後楽園も被害に遭い百億単位の損害を出したと言われている。観光地でもあったため死傷者数も700人以上に及んだらしい。


 大人たちはいずれも「仕方がなかった」と言った。

 天災のようなものだ、と。不可抗力だったのだ、と。

 けれど、私は覚えている。

 その年の夏、東京の空はひどく黒かったことを。

 テレビの向こう側で、瓦礫の中に咲いたような血の色を。

 焼け焦げた遊具。捻じ曲がったドームの骨組み。

 誰かが泣きながら携帯電話を耳に押し当てていた、その姿を。

 ――誰かが、何かを間違えた。

 子ども心に、直感だけがあった。


「……マスターが、その原因?」


 思わず訊き返していた。

 カウンターに並んだグラスの水面が、かすかに震えていた。


 大魔術師は肩をすくめ、ビンゴ先生は無言でグラスを傾けた。


「厳密には違うさ」


 大魔術師が、遠い日の物語を思い出すように言う。


「引き起こしたのは……ハディートじゃない。アイツが、止められなかっただけだ」

「止められなかった――」

「いや、正確に言えば、『止めようとしなかった』んだろうな」


 氷が溶ける音が、やけに耳につく。

 ビンゴ先生が淡々と補足する。


「当時、ハディートは魔術そのものに取り憑かれていた。いや――憑かれたというより、飲まれていたんだ」


 私は黙った。

 思い出す。マスターが時折見せる、底のない空白を孕んだような瞳を。

 あれは、こういう過去を知っている目だったのか。


「今の彼からは想像もつかんだろう? あの頃と比べたらそんなに覇気もないからなぁ」


 大魔術師は笑った。けれどその笑みは、どこか寂しげだった。


「――だからこそ、俺たちは見てるんだよ。アイツが、二度とあの場所へ戻らないようにさ」


 夜が深まる。

 空気は静かに、しかし確実に重くなっていった。


「……そのとき、マスターは?」


 訊いた。

 怖かった。でも、聞かずにはいられなかった。

 大魔術師が煙草をもみ消す音が、妙にやけに耳に残った。


「成ったんだよ」


 彼は、ぽつりとそう言った。


()()()()()()


 言葉に重みがあった。

 祝福でも呪いでもない。ただ、事実だけがそこにあった。


「願いを――叶えたんだ。世界を救うでもなく滅ぼすでもなく。ただ自分の魔術を、魔術そのものを、限界まで突き詰めて限界の向こう側に辿り着いた」


 私は息を呑んだ。


「けどな――」


 大魔術師は、わずかに笑った。

 乾いた、何かを諦めた人間だけができる笑いだった。


「たどり着いた先に、待ってたのは『制御不能』だった」


 ビンゴ先生がグラスをコツ、と鳴らす。

 続けるように言った。


「ハディートは獣になった瞬間、自分自身を見失った。願いも、意志も、魔術の構造すらも。全部、吹き飛ばした。だから、ああなった」


 ――水道橋事件。


 百億単位の被害。

 七百人を超える死傷者。

 そして、魔術災害として最大級の隠蔽工作。

 それは、一人の男が、自分の魔術を信じきれなかった結果だった。


 私は、静かに視線を落とした。

 指先が微かに震えていた。


「……それでも、マスターは、生きてる」


 小さく、呟くように言った。

 それは、祈りでも、呪いでもなかった。

 今ここにある事実だった。


「そうさ」


 大魔術師がわずかに笑った。


「そして、今もなお――選ばないという自由を抱きしめて生きてる」


 重い沈黙が、Ashveilに降りた。

 氷が溶ける音だけが、夜の底で鳴っていた。

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