26.欲望の羅針盤
午前一時ちょうど。Ashveilのランプを落とすと同時にマスターが札を裏返した。
大魔術師が酔いを残して去ったばかり。まだグラスの水滴が乾かない時刻だ。
私は、拭き残しのカウンターに布を滑らせながら問いかける。
「もう閉めるの?」
「……ちょっと中央魔術監察局の動きを知りたくてな。南の守護者に会いに行く。君も来てくれないか」
言いながらモバイル端末でタクシーを呼び出す。予約完了のチャイムが乾いた夜気に響いた。
「……私が必要なの?」
「彼女は精神干渉系だ。僕ひとりでは面倒事が増える。君が盾になるわけじゃない……判断材料が欲しいだけだ」
私はそれ以上詮索せず、帳簿を締め、レジから紙幣を数えてポケットへ。
「店の片づけは?」
「今日の開けの時でいい。急ぎじゃないからな」
*
タクシーの後部座席、革張りの冷たさに背を預ける。車は吉祥寺通りから東京 ICへ向かう。
灯りが流れだす頃、マスターが低く告げる。
「名前は《マディガル》。南を流れる本流の女王だ」
「……特徴は?」
「身長182cm、褐色、深紅のタトゥーが肩から腰まで。胸元には蛇の鎖。《痛覚》と《快感》を読み換え、欲しい返答を引き出す。笑うと揺れる。誇張じゃなく本当に揺れる」
「要するにドSの支配者気質」
「話は慎重に運ぶから安心してくれ。色々と慣れている」
そう言うマスターの横顔が夜のガラスに映り、私は瞼へ重みを感じた。
「君の正体は伏せる。名も出さない」
「分かった」
「僕が干渉を食らって言動が不自然になったら、すぐ距離を取れ。巻き込まれないように」
頷いたつもりが、言葉にならない。振動が子守唄のようで、瞼が自然と閉じた。
うとうとと沈む途中、彼の声だけが耳朶の奥に残る。
「……選択肢だけは、常に君の手に」
*
短い夢を見た。
カウンターの奥で揺れる青い酒《Seawater Reverie》。氷が音もなく溶け、カモミールだけが浮いている。誰かが呼んでいるようで、名は無い。
揺り戻すようにシートベルトが肩を押した。
車は料金所のゲートを抜け、わずかな減速ののち再び加速する。表示された金額と「深夜四割引」の文字をぼんやり眺める。
「……起こした?」とマスター。
「ううん、夢の途中」
「悪い夢か」
「味のしない夢」
彼はひとつだけ笑った。窓ガラスに映ったその笑みは淡く消える。
町田インター。料金所を抜け、タクシーは国道を南へ折れる。
繁華街の看板は灯りを落とし、午前二時前の街は瓶底のように静かだった。
「マディガルは、不要だと判断した感情を次の日には消す。だが、同意の形だけは残す。支配しても、選択の痕跡は奪わない。それが、僕にない優しさだ」
その優しさの温度は測れない。けれどマスターの声音に微かな嫉妬と懐旧が混じるのを、私は聞き取った。
黙って手のひらを差し出す。絡めはしない。彼は触れず、しかし掌は近いまま、夜のほの温さだけが互いに移った。
タクシーが最後の赤信号で停車する。遠くで踏切の警報器が三度鳴った。
この先に待つ女王は、私のことを不要と見るだろうか。
あるいは――必要としたなら、私は何を差し出すのだろう。
車が再び動き出す。
南の夜は、まだ口を開けていない。
*
タクシーが町田駅前のロータリーを迂回し、裏手のホテルに横付けされた。
午前二時一五分。雨上がりのアスファルトがネオンを鈍く返している。
私はまだ半分眠気を引きずっていた。ドアが開くたび生ぬるい夜気が吹き込み、現実だけが輪郭を取り戻す。
マスターは運賃をモバイルSuicaで払い、ドライバーに短く礼を言った。受け取った領収書を無造作に折りたたみ、私へ視線だけで合図をよこす。
エントランスの自動扉を抜けると、ロビーには微香性のオイルと夜景の残り火が溶けていた。
フロントを通り過ぎ、サービスエレベーターへ。二人きりになると、マスターは声を潜めた。
「二十階。最上階のラウンジだ」
仕事の輪郭は曖昧に浮いて消える。
エレベーターは静かに揺れ、数字が上昇を刻んだ。胸の奥で鼓動が弾む。
「私は?」
「Ashveilの助手ということで」
「……了解」
到着を告げる電子音。扉が横に割れると、昼間の残り香を纏った回廊が広がった。突き当たり、金箔のドアが半ば開いたまま私たちを待っている。
中は薄暗く、黒檀のカウンターと半月形のソファが点在していた。紫煙が波のように漂い、ジャズピアノの残響が床でゆらめく。
そして、視線を吸い取るように――マディガル。
足を組んでソファに凭れ、深いスリットの入ったチャコールグレーのドレスが豊かな輪郭を強調していた。
肩から背中にかけて走るタトゥーは深紅の蔦が絡み合うようで、胸元の鎖形装飾が呼吸に合わせて揺れる。
「遅かったじゃない、脚本の魔術師さん――」
低いアルトが氷を弾く。
彼女は灰皿にシガーの灰を落とし、私へ興味深げに視線を滑らせた。
「そちらが噂の――お嬢さん?」
噂? 私は眉を寄せかけるが、直後に脳の奥がきゅっと収縮した。
痛み、と呼ぶには甘い。けれど甘美と言うには鋭い。皮膚の内側を撫でる感触が、瞬間的に快楽へと反転する。
息がこぼれた。
マディガルの唇が艶やかに歪む。
「小手調べ。悪く思わないで。痛みも快楽も同じ硬貨の裏表――どちらに転ぶかは魂の材質次第」
私は無意識に踏み留まっていた。侵入してきた感覚は、何か柔らかな膜に弾かれ途切れる。
マスターが一歩前に出る。
「彼女は客だ。深入りはなしで頼む」
「当然よ。あなたを飼った頃よりは倫理的になったもの」
飼った――突き刺す単語が宙で鳴った。マスターは動じず、カウンターに手を添える。
「中央魔術監察局の動きを知りたい。《白》に関する最新の調書を」
マディガルはカクテルグラスを回し、溶けかけた氷越しにこちらを品定めした。
「全く……どうせ召集されるのだから自分で行けばいいのに。……まぁいいわ。代価は?」
「後日、君の依頼を一つ――内容は問わず受ける」
彼女は満足げに瞬きを遅らせた。
「いいわ。まず局内の温度から――」
パチン。指先だけでグラスを鳴らし、情報の流れが始まる。
『中央魔術監察局の現況』
1. 《白》(セラフ)関連調書の急増
過去一月の調査件数を基準にすると20%増。
内容はほぼ残留魔力の漂着と局地的な時間遅延に集中。
2. 対応方針の分裂
北側は「即時掃討」。
南側は「観測優先」。
本部は両陣営に臨時協力を打診し、八方の守護者全員へ通達済み。
3.直近の痕跡
三鷹・深夜 0:12――三鷹駅北口上空で半径14mの魔力歪曲。
八王子・18:47――旧病院跡地で小規模な構造呼び水を観測。
量は極微だが「誘引型」特有の符号配列あり。
誰を、あるいは何を呼ぶかは解析不能。
「二点間だけじゃ線。三点目が現れたら面になる。西でも東でもない第三の座標……さて、どこを選ぶかしら」
マディガルは楽しげに足を振り替え、踵の高いピンヒールが床を叩く。
「願いの器が動く時にだけ《白》は地上に触れる――」
願いの器。胸の奥にざわめき。けれど私は無表情を保つ。
マスターはグラスを借り受け、溶け残った氷を舌で転がすように味わった。
「三鷹と八王子。中央線沿いか……偶然なのだろうか」
「意図があったとしても《白》の目的は読めない。あなたが抱く作品への執着なのか、それとも――もっと大きな構造式を描いているのか」
作品、と言いながらマディガルは視線で私の輪郭をなぞる。
私は息を整え、冷えた指で膝を押さえ込む。揺さぶりに対し、制動を失いたくなかった。
「選択肢だけは奪わないわ。私の流儀に反するもの」
ささやく声が耳朶をくすぐり、蝋燭の炎のように残る。
マスターは頷き、内ポケットから小さな封筒を差し出した。
「局の正式な写しが欲しい。これで足りるはずだ」
羊皮紙の質感。マディガルは封を切らず宙で重さを測るようにして、ドレスの深いポケットへ。
「あなたの借り、しかと受け取った。――それと、この護符だけでは足りないかもね」
「何をしようが僕の責任で処理する」
「言い切るわね。ならせいぜい板子一枚の生命線を堪能なさい」
女王の笑いは低く、夜の底で鈴を鳴らす。
時計を見ると、午前三時を回ろうとしていた。
マディガルは立ち上がり、私の前でわざと背筋を伸ばす。タトゥーの蔦が流れるように波打った。
「また会いましょう、脚本の魔術師さん。そして――無名のお嬢さん」
彼女の指先が私の顎を軽く上げる。甘い香気と微かなくすぐったさ。
次の瞬間には距離が戻り、彼女はバーカウンターへ歩み去っていた。
ラウンジを後にし、無人の廊下を歩く。
マスターは深く息を吐いた。
「……借りを作ったな」
「後日、どんな依頼が来るんだろう」
「君には背負わせない。――それより三鷹と八王子、そして第三の座標。この三カ所を最優先で調べる」
「私も行く?」
「いや、僕が先に掴む。明日、君はバーで待っていてくれ」
エレベーターが降下を始める。鏡面に映る私の顔は、まだ少し熱を帯びていた。
願いの器――言葉だけが残響し、正体不明の重力が胸の奥でゆらいだ。
扉が開き、ロビーの静けさが戻る。
私たちは無人のフロントを横切り、夜気の待つ外へ出た。
空は薄い群青。東の端がかすかに白んでいる。
セラフを調べる旅は、始まったばかりだった。




