25.死の瞬間
私は17歳の時に死んだ。
正確には死んだはずだった。
あの日のことは、いまだに記憶の底で腐らずに残っている。
春の夕方。風が強くて、制服の裾が少しだけ捲れていた。
学校帰り、商店街の角を曲がったところで何かが走ってきた。
それは、光でも影でもなかった。音だった。
鉄の咆哮。ブレーキ音ではない、止まるつもりがない音。
ほんの一瞬だけ、視界にトラックのフロントガラスが映った。
運転手の顔は見えなかった。私の顔を見てすらいなかった。
――気づいた時には、右半身が存在していなかった。
背中が引き裂かれる音がした。
肩が抜ける感覚より先に、肺の片方が潰れていくのが分かった。
皮膚ではなく、内側から砕けた音が響いた。
肋骨が、何かに噛み砕かれるように折れていった。
そのまま鎖骨がずれ、腕がどこか遠くへ持っていかれる。
自分の手がもう動かないことに気づいたのは、激痛の後だった。
右の耳から世界が消えて、右目に光が入らなくなった。
脳が、半分だけ死んだみたいだった。
左半身だけが生きていて、右半分が「ここから先は不要だ」と切り捨てられた感覚。
地面に投げ出された時、アスファルトの熱がまだ残っていた。
だが、それもすぐに分からなくなった。
身体が冷たくなっていくのを感じる。右側から、生きてる方と死んでる方の境界線が、私の身体の中をゆっくりと侵食していく。
泣いていなかった。叫んでもいなかった。
自分が死んだことを理解していた。
あぁ、これで終わるんだな。
このまま誰にも見送られずに終わるんだ。
その時、誰かの声が響いた。言葉は分からなかった。
だが、それは私のために願われたものだった――凍りついた身体に熱を注ぎ、砕けた意識を縫い合わせるような、祈りの構造。
死の淵で、私をこの世界に引き戻した何かだった。
*
目を覚ましたのは、自分の部屋だった。
痛みも包帯もなかったが、右半身に奇妙なケロイドの跡がわざとらしく残っていた。
鏡の前で制服を脱ぎ、右腕を、右目を、肺の動きを確かめた。心臓は鼓動を忘れていなかった。なのに、どこか借り物の身体のようだった。
家族はいつも通り朝食を食べ、友人は教室で笑っていた。
事故のことは誰もはっきり覚えていなかった。
「トラックが止まった」「接触もなかった」と、曖昧な記憶で塗り潰されていた。
私は頷き、笑顔を作った。だが、私は何度も指先を見つめた。
この手は、本当に私のものなのか?
身体の右側だけが、どこか別の場所に置き去りになっているような感じだった。
その夜、夢を見た。
何もない空間。色も、音も、重力すらない場所。
なのに、誰かがこちらを見ていた。
その誰かは、人間の姿をしていなかった。
性別も、輪郭もなく、ただ「見る」という行為だけがそこにあった。
言葉はなかった。けれど、確かに願われていた。
「君は、まだ終わらない」
声ではなく、構造だった。
意思のようで、呪いのようで、それでもどこか優しかった。
朝になってもその夢は鮮明だった。
でも、誰にも話さなかった。
私が今生きていること自体が、もう説明できないことだったから。
それからしばらくして気づいた。
私の中に、誰かの願いが根を張っていた。
それは私のものではない。
けれど、ずっとそこにいて私を見ていた。
それが誰なのかは分からない。
きっと私はあの時から――もう人間じゃなかったのかもしれない。
だから私は、黙って生きることにした。
話せば狂っていると思われる。説明しようとしても、言葉は途中で途切れる。
誰もが「無事だったね」と笑い、私はそれを受け取る顔を演じた。
本当は違う。私は確かに死んだ。だが、それを証明するものは何もなかった。
怖かった。あの日を覚えているのが自分だけだと知ること。右手の指先が、時折他人のものに感じられること。笑うとき、頬の動きがわずかに遅れること。その違和感は、誰かの願いが私に根を張った日から消えない。
たまに思う。私は「生きているフリ」をしているだけかもしれない。呼吸し、返事し、食べて、眠る――そうやって死ななかったことにした日常を演じる。
それを誰かに見抜かれるのが怖い。全部が終わる気がするから。
だから私は笑う。できるだけ人間らしく。でも、時折その笑いが誰のものか分からなくなる。そんなときだけ、ひとりぼっちだと気づく。
右手が、知らない文字を空に描いた。
一瞬、誰かの記憶が私の指先を借りて動いた気がした。
それは、私をこの世界に縛った願いの欠片だったのかもしれない。
私はそっと手を下ろし、笑顔を浮かべた。
今日も、生きているフリを続けよう。誰かのために。あるいは、私のために。




