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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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25/54

25.死の瞬間

 私は17歳の時に死んだ。

 ()()()()()()()()()()()()

 あの日のことは、いまだに記憶の底で腐らずに残っている。

 春の夕方。風が強くて、制服の裾が少しだけ捲れていた。

 学校帰り、商店街の角を曲がったところで何かが走ってきた。

 それは、光でも影でもなかった。音だった。


 鉄の咆哮。ブレーキ音ではない、止まるつもりがない音。

 ほんの一瞬だけ、視界にトラックのフロントガラスが映った。

 運転手の顔は見えなかった。私の顔を見てすらいなかった。



 ――気づいた時には、右半身が存在していなかった。



 背中が引き裂かれる音がした。

 肩が抜ける感覚より先に、肺の片方が潰れていくのが分かった。

 皮膚ではなく、内側から砕けた音が響いた。

 肋骨が、何かに噛み砕かれるように折れていった。

 そのまま鎖骨がずれ、腕がどこか遠くへ持っていかれる。

 自分の手がもう動かないことに気づいたのは、激痛の後だった。

 右の耳から世界が消えて、右目に光が入らなくなった。

 脳が、半分だけ死んだみたいだった。

 左半身だけが生きていて、右半分が「ここから先は不要だ」と切り捨てられた感覚。


 地面に投げ出された時、アスファルトの熱がまだ残っていた。

 だが、それもすぐに分からなくなった。

 身体が冷たくなっていくのを感じる。右側から、生きてる方と死んでる方の境界線が、私の身体の中をゆっくりと侵食していく。


 泣いていなかった。叫んでもいなかった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 あぁ、これで終わるんだな。

 このまま誰にも見送られずに終わるんだ。



 その時、誰かの声が響いた。言葉は分からなかった。

 だが、それは()()()()()()()()()()()()()()――凍りついた身体に熱を注ぎ、砕けた意識を縫い合わせるような、祈りの構造。

 死の淵で、私をこの世界に引き戻した何かだった。

 


*



 目を覚ましたのは、自分の部屋だった。

 痛みも包帯もなかったが、右半身に奇妙なケロイドの跡が()()()()()()()()()()()

 鏡の前で制服を脱ぎ、右腕を、右目を、肺の動きを確かめた。心臓は鼓動を忘れていなかった。なのに、どこか借り物の身体のようだった。


 家族はいつも通り朝食を食べ、友人は教室で笑っていた。

 事故のことは誰もはっきり覚えていなかった。

「トラックが止まった」「接触もなかった」と、曖昧な記憶で塗り潰されていた。

 私は頷き、笑顔を作った。だが、私は何度も指先を見つめた。

 この手は、本当に私のものなのか?

 身体の右側だけが、どこか別の場所に置き去りになっているような感じだった。


 その夜、夢を見た。

 何もない空間。色も、音も、重力すらない場所。

 なのに、誰かがこちらを見ていた。

 その誰かは、人間の姿をしていなかった。

 性別も、輪郭もなく、ただ「見る」という行為だけがそこにあった。

 言葉はなかった。けれど、確かに願われていた。


「君は、まだ終わらない」


 声ではなく、構造だった。

 意思のようで、呪いのようで、それでもどこか優しかった。

 朝になってもその夢は鮮明だった。

 でも、誰にも話さなかった。

 私が今生きていること自体が、もう説明できないことだったから。


 それからしばらくして気づいた。

 私の中に、誰かの願いが根を張っていた。

 それは私のものではない。

 けれど、ずっとそこにいて私を見ていた。


 それが誰なのかは分からない。

 きっと私はあの時から――もう人間じゃなかったのかもしれない。


 だから私は、黙って生きることにした。

 話せば狂っていると思われる。説明しようとしても、言葉は途中で途切れる。

 誰もが「無事だったね」と笑い、私はそれを受け取る顔を演じた。

 本当は違う。私は確かに死んだ。だが、それを証明するものは何もなかった。

 怖かった。あの日を覚えているのが自分だけだと知ること。右手の指先が、時折他人のものに感じられること。笑うとき、頬の動きがわずかに遅れること。その違和感は、誰かの願いが私に根を張った日から消えない。


 たまに思う。私は「生きているフリ」をしているだけかもしれない。呼吸し、返事し、食べて、眠る――そうやって死ななかったことにした日常を演じる。

 それを誰かに見抜かれるのが怖い。全部が終わる気がするから。

 だから私は笑う。できるだけ人間らしく。でも、時折その笑いが誰のものか分からなくなる。そんなときだけ、ひとりぼっちだと気づく。


 右手が、知らない文字を空に描いた。

 一瞬、誰かの記憶が私の指先を借りて動いた気がした。

 それは、私をこの世界に縛った願いの欠片だったのかもしれない。

 私はそっと手を下ろし、笑顔を浮かべた。

 今日も、生きているフリを続けよう。誰かのために。あるいは、私のために。

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