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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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24.虚構回帰 -Vanitas Regression-

 今日も言葉は私を選んでくれなかった。

 詩も、セリフも、酒の味すら浮かばない。そういうときもある。

 魔術が眠り感情が霞む夜。誰も泣かず、誰も救われない。


 Ashveilのカウンターで、私はノートを開いたまま固まっていた。

 書く気がないわけじゃない。何を書いても詩にならない感じがした。

 その違和感が少しだけ苦しかった。


「……たまには詩じゃないもの、読んでみる?」


 マスターがふいに言った。

 磨いていたグラスを伏せ、棚の下から何かを取り出す。

 それは、厚みのある束だった。

 印刷された古い台本用紙。部分的に黄ばんでおり、端が擦れている。


「脚本……ですか?」

「あぁ。僕が昔書いたやつ」

「どうせ魔術のことでも書いているんでしょ」

「いや、これはまだ完璧な魔術じゃなかった頃のもの。……でも、ここから魔術が生まれた。言葉で、誰かの未来を選ばせる構造だ」


 手渡された台本は重かった。物理的にも、気配の重さにも。

 表紙に書かれていたタイトルは、虚構(ヴァニタス・)回帰(リグレッション)


「読む前に心の準備とか……」

「いらない。どうせ君はまだ発動できないから」


 ――発動。

 脚本なのに、そんな言葉を使うのが妙にリアルだった。


 私はページをめくる。

 一人称の地の文はない。そこにあるのは、セリフとト書きだけ。


 登場人物──

 語り手。

 神に名を与えられた少女。

 構造を書き換える男。

 そして、名もなきもの。


 その名もなきものの台詞に、なぜか心が引っかかった。


> 「もし願いが構造そのものを壊したら、何が残る?」

> 「名も、声も、物語すらも残らない。けれど、ただひとつ在るだけのものが、そこに目を覚ます」


 私はふと顔を上げた。

 マスターは、私の視線を待っていたかのように静かに頷いた。


「……なんですか、これ」

「ただの終末構文さ。名前も与えられず、誰からも願われなかったものが構造を壊して現れる」


 ページの片隅に、その存在を指す言葉が書かれていた。


 ──大いなる(ザ・グレート・)(ビースト)


 詩でも魔術でもない何かが、そこに横たわっている気がした。

 ページをめくるたびに、何かが少しずつ冷たくなる。

 物語は、終わりに向かって整然と崩れていく。

 キャラクター達は誰も感情的な叫びはあげない。

 それなのに、読んでいるこちらの胸の内側だけがじわじわと焦げていく。


> 「名前を与えるのは祝福ではない。拘束だ」

> 「選ばせたように見せかけて選ばせない。それが構造だ」

> 「それでも私は名前を受け取った。だから、あなたを壊すしかなかった」


 その台詞を読んだ瞬間、私は息を止めていた。

 どのキャラクターが言ったのか、ページのレイアウトを追わなくても分かる。

 神に名を与えられた少女。

 彼女こそが、壊すことを「自分の意思」として受け入れる構文。


「……これ、詩じゃないのに」

「感情が動くか?」

「……勝手に胸が動く。読んでるだけなのに」

「それが脚本の魔術さ」


 マスターは椅子に身を預けながら、遠くを見るように言った。

 その横顔に笑みはない。

 ただ、静かに昔の自分を見ている目をしていた。


「これを書いた時、何か……あったんですか」

「……何人か壊した。その事実だけが残った」

「……」

「必要経費さ。 彼らは選びたがってた。誰かに壊されることで、初めて生きられるような……そんな連中ばっかだったから」


 私はまたページに目を落とした。

 構造を書き換える男が、少女に向かって言う。


> 「壊すという行為の中にしか自由はない。けれど、それでも君が自分でそう書いたなら、それはもう呪いじゃない」


 詩じゃない。なのに祈りよりも重たい。

 願いよりも真っ直ぐに胸を刺してくる。

 これは()()だ。 読み手の感情が自分のものだと錯覚してしまう構文。

 気づかないうちに感情を選ばされる、恐ろしく静かな魔術。


「脚本って……人の感情に入り込むんですね」

「そういうものだよ。でもそれは、本人に選ばせたフリをするだけだ」

「詩は……そうじゃない気がする」

「そうだね。詩は選べなかった感情の亡霊だから」


 私は膝の上で台本を閉じた。

 もう少し読んだら、私までこの構文の中に取り込まれそうだった。

 読み終えたはずなのに、頭の中では台詞の余韻が何度も反響していた。


> 「名を奪われ、願いすら否定された存在は、いずれ構造を超えて現れる」

> 「誰にも愛されず、誰にも願われなかったもの。それが、終わりの夜に目を覚ます」


 それが、大いなる獣と呼ばれていた存在だった。

 マスターも説明しようとはしなかった。


 ただ、脚本の一番最後のページにこう書かれていた。


> 「──これは祈りではない。ただ名を持たぬものに遺された、書きかけの遺言」


 私は言葉を失ったまま、ただその余白を見つめていた。

 書かれていない行の中に何かが蠢いている気がした。

 ページを閉じても、それはまだどこかで読み続けられているような気がしていた。

 胸の奥にざらついた余韻が残っている。

 それは詩の後に感じるものと少し違っていた。

 もっと冷たくて、深くて、忘れられない感覚。


「……なんで、これを私に見せたんですか」


 静かに訊いた。

 マスターは答えるまでに少しだけ間を取った。

 カウンター越しのグラスを、軽く指でなぞるように触れながら。


「君が書こうとしてるものが、祈りだけじゃないと気づいてほしかった」

「……どういうことですか」

「君はずっと詩を書いてる。祈るように。だが、それは優しすぎるんだ」

「私が優しい……?」

「いや、違う。君は自分の言葉だけで傷つくことを、まだ怖くないと思ってるだけだ」


 私は言葉を失った。


「脚本は、()()()()()()()()()()。その誰かを、自分の魔術で壊す責任を背負わなきゃいけない」

「……」

「君が願いを受け取る側である限り、本来の魔術師にはなれない」

「……それって、どういう……」


 マスターの目が、ほんの少しだけ揺れた。


「……いつか君が、自分で構文を書くようになったとき、誰かの言葉で世界を変えようとしたとき──」


 そこまで言って、マスターは口を閉じた。

 代わりに閉じた台本をひとさし指で軽く叩いた。


「そのとき、君がこの脚本(虚構回帰)を思い出せばいい」

「……」

「これは選ばれなかった物語だ。構造を拒んだ者にしか書けなかった言葉だ」


 私はもう何も言えなかった。十分に読みすぎた。

 今何かを語ったら、それは脚本の続きになってしまう気がしたのだ。

 台本を閉じてからも、しばらく無言が続いた。

 言葉をたくさん読みすぎて今更何を話せばいいのか分からなかった。


 マスターはグラスの底を眺めていた。

 空っぽになった琥珀色が、照明を跳ね返している。


「……最初に書いた詩って、覚えているかい?」


 ふいに、そんなことを訊かれた。

 私は少しだけ考えて、首を横に振った。


「覚えてない。ちゃんと詩になる前に捨てちゃった」

「それでも、君が最初に言葉にしたものは魔術だったと思うけどね」


 私は苦笑した。

 それはさすがに買いかぶりだと思った。


「私の魔術は、きっと誰かの願いがなきゃ動かないんですよ。 最初の言葉なんて誰にも届かなかった」

 

 マスターは、その言葉にだけ反応を示した。

 指先が小さく止まり、視線が私に戻ってくる。


「──だから、だよ」


「え?」


「誰にも届かないからこそ、あの時だけ君は完全に自由だったんじゃないか。 誰かの言葉じゃなくて、自分の存在だけで言葉が立ち上がった…… 。それは魔術じゃないかもしれないが──それ以上の何か、だったんじゃないのか」


 私は返す言葉を探した。

 でも、見つからなかった。 なんとなく分かる気がしたから。

 願いでも祈りでもない。名前もいらなかった。

 ただ、その時の私は確かに在った。

 詩にもならない物語にもならない、だけど誰にも渡せなかったひとつきりの言葉。


 もしかしたら、ある種の魔術だったのかもしれない。

 言葉にしなかった感情が、胸の奥で小さく呼吸していた。

 それはまだ、何も名前を与えられていない。けれど、本当に名が必要なのだろうか──

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