23.海水の夢想
その夜、マスターは面倒臭そうにグラスを磨いていた。
普段からやる気があるタイプではないけれど、今日は輪をかけてだるそうだった。
「……そういえば、今月の星座カクテル君が作ってよ」
言葉の間にある無責任さがすごい。
私はカウンターの内側から彼を睨んだ。
「……はい?」
「僕がやるとどうしても構造が入っちゃうんだよ。最近の君の詩の方が、ちゃんと人間の味がしてる。魔術的じゃなくてちょうどいい。あと、もう考えるのが面倒……」
「絶対最後の理由だけでしょ!」
「そうでもない。95%くらいだ」
「それはほぼ答えなんだって……」
呆れている私を横目に、マスターは棚から一本のボトルを取り出した。
The Botanist。
瓶に植物の名前がずらりと刻まれている。
前にビンゴ先生が持ってきたやつだ。
「詩を詠む前に、これで酔っとけ」とか言って、雑なメモと一緒に置いていった。
「今月は魚座。つまり、境界のゆらぎと感性の深海のカクテルってわけだ。君なら分かるでしょ、そういう味」
詩的なカクテル。
それは、この店で魔術に最も近いもののひとつだ。
けれど今日は魔術は起きない。起こさない。
ただ詩として、誰かの夜に寄り添う味を作る──そういう夜だった。
グラスを選ぶ。
迷った末に、少し曇った丸いバルーングラスを選んだ。なんとなく春の水槽に似ていたから。
そっと氷を入れて、冷やす間に材料を揃える。
The Botanistを45ml。
ブルーキュラソーを15ml。
ライチリキュールをほんの少し──
そして、ライムジュースとひとつまみの岩塩。
「……色、きれい」
思わず口に出た。
グラスの中で、海の底みたいな青がゆっくり溶けていく。重くもなく軽くもなく、願いと夢の境界線みたいな──そんな色だった。
「名前は決めたの?」
「……“Seawater Reverie”」
「ほう、海水の夢想か。いいじゃないか」
マスターは氷をゆっくりとかき混ぜながら、静かに笑った。
彼が笑う時、それが本当に気に入った証拠だと私は知っている。
グラスの上に、小さなドライカモミールの花を一輪だけ浮かべた。
沈まない。軽すぎて、風があったら飛んでいきそうだった。
マスターがグラスを受け取る。
琥珀色の照明の中で、薄い青が少しだけ揺れた。
ひとくち。
飲むというより、味を聴いているようだった。
口に含んだまま数秒、そして静かに喉を通す。
「……沈む味だ」
「どこに?」
「名前を呼ばれなかった日の、ちょっと手前あたりに」
私は少しだけ目を伏せる。
マスターの感想はいつだって詩の一節みたいだった。
だけど今日のこれは──私の言葉でもある。
「魔術、起きてないですけど」
「起きない方がたまにはいいんだよ」
「……それって本音ですか?」
「本音だ。魔術が起きなくても、人の心は揺れる」
そう言って、マスターはもう一口だけグラスに口をつけた。
今度はちゃんと飲むという動作だった。
バーテンダーではなく、客の動き。
「これは、魔術にならなかった詩なんだろうな」
私はうっすら笑って、そっとカモミールを指先で回す。
氷が少しだけ鳴った。
その音が、誰かの願いの終わりみたいに聴こえた。
「たまにこういうの作ってもいいですか」
「構わないさ。むしろ、君にしか作れない酒がある」
マスターの声は、静かだった。
でも、その言葉はまっすぐだった。
彼の目は、どこか少しだけ遠くを見ているようだった。
誰かの夢の続き、みたいなものを探しているような──
そんな夜だった。
カウンターの奥のノートに、レシピを書き込んだ。
ページの端に、手書きで名前を添える。
『Seawater Reverie』
それだけで、何かが完結した気がした。
誰にも願われなかったまま、でも確かにそこにある一杯。
誰かが何も語らずに、ただこの酒を飲み干してくれたなら──
それだけできっと詩になる。
マスターがグラスを洗いながら、ぽつりと呟いた。
「春はいつだって許さない顔をしてるのに」
「それでも毎年ちゃんと来ますよ」
「……だから怖いんだよ。春ってやつは」
私たちはそれ以上言葉を交わさなかった。
けれど、沈黙の中にはちゃんと温度があった。
グラスの中の氷がゆっくりと溶けていく。
夢が終わる音は、いつだってこんなふうに静かなんだろう。




