表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/54

23.海水の夢想

 その夜、マスターは面倒臭そうにグラスを磨いていた。

 普段からやる気があるタイプではないけれど、今日は輪をかけてだるそうだった。


「……そういえば、今月の星座カクテル君が作ってよ」


 言葉の間にある無責任さがすごい。

 私はカウンターの内側から彼を睨んだ。


「……はい?」

「僕がやるとどうしても構造が入っちゃうんだよ。最近の君の詩の方が、ちゃんと人間の味がしてる。魔術的じゃなくてちょうどいい。あと、もう考えるのが面倒……」

「絶対最後の理由だけでしょ!」

「そうでもない。95%くらいだ」

「それはほぼ答えなんだって……」


 呆れている私を横目に、マスターは棚から一本のボトルを取り出した。

 The Botanist。

 瓶に植物の名前がずらりと刻まれている。

 前にビンゴ先生が持ってきたやつだ。

「詩を詠む前に、これで酔っとけ」とか言って、雑なメモと一緒に置いていった。


「今月は魚座。つまり、境界のゆらぎと感性の深海のカクテルってわけだ。君なら分かるでしょ、そういう味」


 詩的なカクテル。

 それは、この店で魔術に最も近いもののひとつだ。

 けれど今日は魔術は起きない。起こさない。

 ただ詩として、誰かの夜に寄り添う味を作る──そういう夜だった。


 グラスを選ぶ。

 迷った末に、少し曇った丸いバルーングラスを選んだ。なんとなく春の水槽に似ていたから。

 そっと氷を入れて、冷やす間に材料を揃える。


 The Botanistを45ml。

 ブルーキュラソーを15ml。

 ライチリキュールをほんの少し──

 そして、ライムジュースとひとつまみの岩塩。


「……色、きれい」


 思わず口に出た。


 グラスの中で、海の底みたいな青がゆっくり溶けていく。重くもなく軽くもなく、願いと夢の境界線みたいな──そんな色だった。


「名前は決めたの?」

「……“Seawater Reverie”」

「ほう、海水の夢想か。いいじゃないか」


 マスターは氷をゆっくりとかき混ぜながら、静かに笑った。

 彼が笑う時、それが本当に気に入った証拠だと私は知っている。

 グラスの上に、小さなドライカモミールの花を一輪だけ浮かべた。

 沈まない。軽すぎて、風があったら飛んでいきそうだった。


 マスターがグラスを受け取る。

 琥珀色の照明の中で、薄い青が少しだけ揺れた。


 ひとくち。

 飲むというより、味を聴いているようだった。

 口に含んだまま数秒、そして静かに喉を通す。


「……沈む味だ」

「どこに?」

「名前を呼ばれなかった日の、ちょっと手前あたりに」


 私は少しだけ目を伏せる。

 マスターの感想はいつだって詩の一節みたいだった。

 だけど今日のこれは──私の言葉でもある。


「魔術、起きてないですけど」

「起きない方がたまにはいいんだよ」

「……それって本音ですか?」

「本音だ。魔術が起きなくても、人の心は揺れる」


 そう言って、マスターはもう一口だけグラスに口をつけた。

 今度はちゃんと飲むという動作だった。

 バーテンダーではなく、客の動き。


「これは、魔術にならなかった詩なんだろうな」


 私はうっすら笑って、そっとカモミールを指先で回す。

 氷が少しだけ鳴った。

 その音が、誰かの願いの終わりみたいに聴こえた。


「たまにこういうの作ってもいいですか」

「構わないさ。むしろ、君にしか作れない酒がある」


 マスターの声は、静かだった。

 でも、その言葉はまっすぐだった。


 彼の目は、どこか少しだけ遠くを見ているようだった。

 誰かの夢の続き、みたいなものを探しているような──

 そんな夜だった。


 カウンターの奥のノートに、レシピを書き込んだ。

 ページの端に、手書きで名前を添える。


『Seawater Reverie』


 それだけで、何かが完結した気がした。

 誰にも願われなかったまま、でも確かにそこにある一杯。

 誰かが何も語らずに、ただこの酒を飲み干してくれたなら──

 それだけできっと詩になる。


 マスターがグラスを洗いながら、ぽつりと呟いた。


「春はいつだって許さない顔をしてるのに」

「それでも毎年ちゃんと来ますよ」

「……だから怖いんだよ。春ってやつは」


 私たちはそれ以上言葉を交わさなかった。

 けれど、沈黙の中にはちゃんと温度があった。


 グラスの中の氷がゆっくりと溶けていく。

 夢が終わる音は、いつだってこんなふうに静かなんだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ