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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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22/54

22.願望の破片

 ……店の扉がゆっくりと開いた。

 音は小さいのに、誰なのかすぐに分かった。

 背丈といい、歩き方といい、あの夜……()()()()、カ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

前はもっと沈んでいた。

 肩が落ちて、背中も曲がって、見るからに限界の人間だった。


 でも、今日は少しだけ違っていた。

 真っすぐではないけれど、ちゃんと足で立っている。目の奥はまだ曇っているけど、崩れそうな感じはない。

 彼は真っすぐカウンターに向かってきて、前と同じ席に座った。

 マスターが「おかえりなさい」と言うと、彼はちょっとだけ笑った。

 前はそんな表情、見せなかった気がする。


「また、来ちゃいました」


 なんとなく照れてるような声だった。

 マスターは無言でラフロイグを棚から取り出し、グラスに注ぎ始めた。

 彼の目がその琥珀色をじっと追っていた。

 前みたいに今すぐ流し込む感じじゃない。なんとなく余裕があった。

 その余裕が少しだけ私を安心させた。 


「……あの後、謝られたんです。向こうから」


 私は目を細めた。

 マスターは一瞬、グラスを傾ける手を止めた。

 彼は続けた。


「仕事のこととか、言い方がきつかったとか。ちゃんと話をして、お互いに少しずつ歩み寄ってみようって。奇跡じゃないですけど……再構築くらいは、できるかもしれないなって」



 私は黙って頷いた。

 彼の声に変な高ぶりはなかった。期待しすぎず、でも諦めてもいない。

 それだけで前よりずっと良い。

 マスターがグラスを差し出した。

 彼はそれを受け取り、一口だけ含んだ。

 飲み干さない。味わっている。

 あの夜と同じ酒なのに、別の飲み物みたいだった。


「……あの、混ざってないって言われたこと。ずっと考えてました。あれ、すごく正しかったと思って」


 マスターは軽く笑った。


「僕は魔術師だからね。たまに深いことも言う」

「そして私は詩人です。鋭いことも言いますよ」


 私はチェーサーの中の氷を指で回しながら言った。

 彼はふっと笑った。ちゃんとした笑いだった。


「今日はそのお礼も兼ねて。お二人も、何か飲んでください。あの……なんでしたっけ、葉っぱのやつ……」

「カナビス? 一緒に飛ばす気?」

「……今日は地に足をつけて帰ります」


 私は思わず笑ってしまった。それだけで前とは違うのが分かる。

 戻ってきたんだ、この人。少しだけでも自分の足で。


「じゃあ今日は、語れるくらいに酔おうじゃないか」


 私たちは無言でグラスを受け取る。

 乾杯の言葉はない。

 だけど、少しだけ何かが戻ってきた気がした。


「……彼女とは、なんとかうまくやってます」


 グラスをくるくる回しながら、彼はぼそりとつぶやいた。

 声に感情はあまり乗っていなかったが、それが逆に努力の証のように聞こえた。


「でも、やっぱり違うって思う瞬間はありますね」

「同じ人間なんていませんよ」


 私が返すと、彼は少し苦笑した。

 どこか、自分でも分かっているけれど納得しきれていない、という顔だった。


「前みたいに一方的に怒られることは減りました。こっちも、できるだけ合わせようとはしてるんですけど……まぁ、全部は無理ですよね」


 マスターが手元のグラスを軽く回しながら言った。


「歩幅が違っても、隣を歩けるかどうかだよ」


 彼はそれを聞いて少しだけ目を細めた。

 視線はグラスの向こう。まだ見えていない未来を探しているみたいだった。


「それが……難しいんですよね」

「難しいからやる価値があるんです」


 自分でもどうしてその言葉が出たのか分からなかった。

 でも、確かにそう思ったのだ。


「……ただ、全部の努力が報われるとは限りませんけど」


 少しだけ間を置いてそう付け加えると、マスターがふっと笑った。


「フォローが雑だなぁ君は」

「雑でも事実ですから」


 そのやりとりを聞いて、彼はわずかにうなだれた後、静かに言った。


「……なんか、正直疲れますよ」

「そりゃ疲れるでしょう。恋愛って、続けることで壊れることもありますからね」


 私はチェーサーを一口飲んだ。

 その水は、思ったよりも冷たかった。


「何もしないよりはマシですかね」

「人による」


 言った自分にちょっとだけ笑いそうになった。

 彼は思わず吹き出して肩をすくめる。


「ほんと、変わらないですね……あなたは」

「誉め言葉として受け取っておきます」


 カウンターにはグラスが三つ並んでいた。

 どれも少しずつ中身が減っている。

 沈黙が落ちても、それは会話の一部のように自然だった。


「でも、不思議ですよね」


 彼がまた口を開く。


「前に来たときは、正直もう無理だって思ってたんですよ。何をしてもダメだって。でも、なんでか分からないけど、また来たくなって……来てみたら、やっぱりちょっと楽になって」

「それは……多分、カナビスのせいです」


 私が軽く言うと、彼は声をあげて笑った。

 前回はそんな余裕、なかったはずだ。


「違うと思う」

「じゃあ……何のせいですか?」

「……あなたたちのせいです」


 そう言った彼の目には、わずかな熱があった。

 グラスの底に沈んだ琥珀の光が、それをやわらかく照らしていた。


 

 *

 


 帰り際、彼は深々と頭を下げた。

 誰にともなく、「ありがとう」と言った。

 私は何も返さなかった。

 けれど、なんとなくその背中を最後まで見送った。


 春の夜はまだ少し冷たい。

 その空気の中に、温度を持った何かが確かに残っていた。


 あれくらいの笑い方ができるなら――まだ、混ざっていけると思った。

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