22.願望の破片
……店の扉がゆっくりと開いた。
音は小さいのに、誰なのかすぐに分かった。
背丈といい、歩き方といい、あの夜……恋に悩み、カウンターでラフロイグを飲み干していた人だった。
前はもっと沈んでいた。
肩が落ちて、背中も曲がって、見るからに限界の人間だった。
でも、今日は少しだけ違っていた。
真っすぐではないけれど、ちゃんと足で立っている。目の奥はまだ曇っているけど、崩れそうな感じはない。
彼は真っすぐカウンターに向かってきて、前と同じ席に座った。
マスターが「おかえりなさい」と言うと、彼はちょっとだけ笑った。
前はそんな表情、見せなかった気がする。
「また、来ちゃいました」
なんとなく照れてるような声だった。
マスターは無言でラフロイグを棚から取り出し、グラスに注ぎ始めた。
彼の目がその琥珀色をじっと追っていた。
前みたいに今すぐ流し込む感じじゃない。なんとなく余裕があった。
その余裕が少しだけ私を安心させた。
「……あの後、謝られたんです。向こうから」
私は目を細めた。
マスターは一瞬、グラスを傾ける手を止めた。
彼は続けた。
「仕事のこととか、言い方がきつかったとか。ちゃんと話をして、お互いに少しずつ歩み寄ってみようって。奇跡じゃないですけど……再構築くらいは、できるかもしれないなって」
私は黙って頷いた。
彼の声に変な高ぶりはなかった。期待しすぎず、でも諦めてもいない。
それだけで前よりずっと良い。
マスターがグラスを差し出した。
彼はそれを受け取り、一口だけ含んだ。
飲み干さない。味わっている。
あの夜と同じ酒なのに、別の飲み物みたいだった。
「……あの、混ざってないって言われたこと。ずっと考えてました。あれ、すごく正しかったと思って」
マスターは軽く笑った。
「僕は魔術師だからね。たまに深いことも言う」
「そして私は詩人です。鋭いことも言いますよ」
私はチェーサーの中の氷を指で回しながら言った。
彼はふっと笑った。ちゃんとした笑いだった。
「今日はそのお礼も兼ねて。お二人も、何か飲んでください。あの……なんでしたっけ、葉っぱのやつ……」
「カナビス? 一緒に飛ばす気?」
「……今日は地に足をつけて帰ります」
私は思わず笑ってしまった。それだけで前とは違うのが分かる。
戻ってきたんだ、この人。少しだけでも自分の足で。
「じゃあ今日は、語れるくらいに酔おうじゃないか」
私たちは無言でグラスを受け取る。
乾杯の言葉はない。
だけど、少しだけ何かが戻ってきた気がした。
「……彼女とは、なんとかうまくやってます」
グラスをくるくる回しながら、彼はぼそりとつぶやいた。
声に感情はあまり乗っていなかったが、それが逆に努力の証のように聞こえた。
「でも、やっぱり違うって思う瞬間はありますね」
「同じ人間なんていませんよ」
私が返すと、彼は少し苦笑した。
どこか、自分でも分かっているけれど納得しきれていない、という顔だった。
「前みたいに一方的に怒られることは減りました。こっちも、できるだけ合わせようとはしてるんですけど……まぁ、全部は無理ですよね」
マスターが手元のグラスを軽く回しながら言った。
「歩幅が違っても、隣を歩けるかどうかだよ」
彼はそれを聞いて少しだけ目を細めた。
視線はグラスの向こう。まだ見えていない未来を探しているみたいだった。
「それが……難しいんですよね」
「難しいからやる価値があるんです」
自分でもどうしてその言葉が出たのか分からなかった。
でも、確かにそう思ったのだ。
「……ただ、全部の努力が報われるとは限りませんけど」
少しだけ間を置いてそう付け加えると、マスターがふっと笑った。
「フォローが雑だなぁ君は」
「雑でも事実ですから」
そのやりとりを聞いて、彼はわずかにうなだれた後、静かに言った。
「……なんか、正直疲れますよ」
「そりゃ疲れるでしょう。恋愛って、続けることで壊れることもありますからね」
私はチェーサーを一口飲んだ。
その水は、思ったよりも冷たかった。
「何もしないよりはマシですかね」
「人による」
言った自分にちょっとだけ笑いそうになった。
彼は思わず吹き出して肩をすくめる。
「ほんと、変わらないですね……あなたは」
「誉め言葉として受け取っておきます」
カウンターにはグラスが三つ並んでいた。
どれも少しずつ中身が減っている。
沈黙が落ちても、それは会話の一部のように自然だった。
「でも、不思議ですよね」
彼がまた口を開く。
「前に来たときは、正直もう無理だって思ってたんですよ。何をしてもダメだって。でも、なんでか分からないけど、また来たくなって……来てみたら、やっぱりちょっと楽になって」
「それは……多分、カナビスのせいです」
私が軽く言うと、彼は声をあげて笑った。
前回はそんな余裕、なかったはずだ。
「違うと思う」
「じゃあ……何のせいですか?」
「……あなたたちのせいです」
そう言った彼の目には、わずかな熱があった。
グラスの底に沈んだ琥珀の光が、それをやわらかく照らしていた。
*
帰り際、彼は深々と頭を下げた。
誰にともなく、「ありがとう」と言った。
私は何も返さなかった。
けれど、なんとなくその背中を最後まで見送った。
春の夜はまだ少し冷たい。
その空気の中に、温度を持った何かが確かに残っていた。
あれくらいの笑い方ができるなら――まだ、混ざっていけると思った。




