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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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21.甘さの中の優しさ

 三月の風は、冬の後悔みたいだった。

 冷たくて、名残惜しくて、それでいて少しだけ春の匂いが混ざっている。

 私はその風の中、吉祥寺のロータリー脇に立っていた。

 スマホを握ったまま、ほんの十五分前に届いた通知を見返す。


『──どうしても君と行きたいところがある』


 というメッセージに続いて、


『お金は全部払うから』


 ……実にマスターらしい理由の提示だった。

 これで私は家から引きずり出された。

 自分の意思というより、言葉の勢いで動かされた感じだった。


*


 呼び出されたのは駅前交番の前。

 理由は「人が多すぎると探すのが面倒だから」。

 ……全部が彼らしくて、何も言い返す気になれなかった。


 足元ではマフラーの端が風に翻っていた。

 空気はまだ冷たい。でも、吐く息は白くない。

 つまり、冬と春が少しだけ混ざる頃。

 人混みの中から、見覚えのあるモノクルをかけた黒シャツが歩いてきた。

 マスターだった。昼間歩いていると違和感しかない……。


「来てくれて助かった」


 あまりにも簡単に感謝を言う。

 あまりにも簡単だから嘘にも見えない。

 

「で、どこに行くんです?」

「ベリーココ。ケーキ屋。駅の南口側にある」

「……」


 私が沈黙したのは、その選択肢を彼が出したことに対してだった。

 あまりにも意外過ぎた。確かにあそこのパフェは美味しいが、マスターが食べているイメージが湧かない。


「おじさんひとりで入るのは……ほら、こういう雰囲気的にキツくてね」


 なるほど。つまり私は、マスターが社会的羞恥から逃れるための同伴者というわけだ。


「……本当に払ってくれる?」

「もちろん」


 それなら別にいいかと思った。

 今日は何も書けなかったし。何かになる予定もなかった。


*


 店の中は変わっていなかった。


 落ち着いた色の内装、ケーキの並ぶショーケース。

 それから、何よりもビジュアルの良いイチゴパフェ。

 これを初めて見たとき、私はちょっと驚いた。

 いちごの数が多すぎて笑ってしまったのを覚えている。

 でも、甘さと酸味のバランスが絶妙で気づけば三回くらい食べに来ていた。


 今日は四回目。

 ただし、マスターと一緒にという条件付き。


「おすすめって何かある?」


 メニューを開いたままマスターが訊ねてくる。

 やっぱりこの空間に馴染んでないのが声のトーンでも分かる。


「……何食べてもおいしいけど、4種イチゴパフェが一番いいかなぁ」

「じゃあそれにしよう」


 私はちょっとだけ笑って、自分も同じものを頼むことにした。

 注文が終わってから、パフェが来るまで時間はかかった。

 十七分。体感で十九分。そして、きっかり二十分。


 スタッフの女性がテーブルに置いた瞬間、マスターの顔がほんの少し固まった。


「……すごい量だな」


 いちごが積み上げられていた。

 まるで果実の塔。生クリームとバニラアイス、その下には苺ジュレ。

 赤と白の層が、春の気配を詰め込んだようにきらきらしている。

 アクセントでドラゴンフルーツも刺さっていた。


「そうそうこれこれ。生クリーム多く見えるけど、全然くどくないんだよね」

「これはもう……軽く魔術だと思う」

「安心して、それは人間の仕事だから」


 私がスプーンを手に取ると、マスターも続いた。

 一口目の後、彼は静かに目を細めた。


「……あぁ……うまい」


 その呟きは、いつものマスターの口調と少し違って聞こえた。

 感想というよりひとつの区切りみたいな声音だった。


 私はもう一口パフェを口に運んでから、前々から引っかかっていたことをようやく訊ねる。


「でも、なんでパフェなんて?」


 マスターはスプーンを動かす手を止めなかった。

 大きなイチゴをすくいながら、少しだけ考えるふうに間を取る。


「理由なんてなくていいだろう」

「……は?」

「君を連れ出す理由なんて、甘いもの食べたくなった以外に思いつかなかったんだよ」


 おそらく冗談だった。

 でも、声の奥に微かにあった何かが、なんとなく本心を語っていた気がした。

 私はスプーンを止めなかった。

 止めてしまうと答えを探してしまいそうだったから。


 パフェは甘くて、冷たくて、口の中で春みたいに溶けていった。

 いちごの果肉の酸味が余計な思考を流してくれる。

 問いはそこで終わった。

 それ以上は掘らなかった。

 今は、ただ甘いものを食べる時間だ。

 それでいいと思った。


 でも、スプーンを三口ほど進めたところで、ふと思った。


 ──詩が、書けるかもしれない。


 理由なんてなかった。

 構造も、感情の高まりも、何もない。


 ただ、目の前のグラスに積まれた果物の色と、それを食べる自分と、向かいにいるマスターと、すべてが不思議と言葉になりそうな気がしただけ。


 春はまだ始まっていない。

 その予感だけがテーブルの上に積もっていた。

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