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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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20.言葉になれなかった詩

 夜が深まると、Ashveilの空間は静かに沈む。

 カウンターの上にあった客の残したグラスの氷は溶けきって、濁った水が底にわずかに残っていた。

 私はその隣でノートを広げていた。何かを書こうとして、やめて、また書こうとして──結局、ペン先だけが宙に迷っていた。


 あの魔術師達が来てから全く持って筆が進まなくなってしまった。

 別に自己否定されたわけではない。ただ、マスターの脚本の話を聞いて自分が分からなくなってしまったのだ。


 ノートの紙が空調の風に揺れる。書かれなかった言葉たちが、何かを語りたがっているかのように。


「……書けない」


 ぽつり、と小さな声で言った。


「何が?」


 奥でグラスを磨いていたマスターが手を止めずに訊ねた。

 その声には感情がなかった。穏やかでも優しくも冷たくもない。ただ透明だった。


 私は答えなかった。代わりに、ノートのページをめくる音だけがカウンターに響いた。

 書かれた文字はまばらで、意味になりきれていない言葉ばかりだった。


「詩、なのか?」


 マスターの問いに、私はうなずいた。


「そのつもり……だったけど」

「だった?」

「今は……もう分かんない。なんで書いてるのかも、誰のために書いてたのかも……」


 私はペンを置いて、手の甲を見つめた。

 夢でウェイトにキスされたあの場所。

 そこに魔術の印はなかった。痕も熱もない人間の手。


「ねぇマスター。詩って……言葉、だよね? 誰かに読まれる前は、ただの……」


 言いかけて言葉が消える。

 マスターは静かに氷を足し直していた。その動きに迷いはない。

 けれど、目はどこか遠いものを見ていた。


「……君の言葉は、時々怖いくらいに正確だよ」

「……え?」

「いや、なんでもない。気にしなくていい」


 私もそれ以上何も言わなかった。代わりにノートを閉じた。

 ページの間から鉛筆の削りかすがひとつ静かに落ちた。


 しばらくの沈黙があった。

 沈黙は、ここAshveilでは会話のように機能する。

 誰かが何かを言わなければならない場ではない。ただ、存在していればいい。

 詩にもならない想いが、ここでは許される。


 その沈黙を破ったのは、ゆっくりと扉を開けて入ってきた酔いどれの男だった。



「お、やってるじゃん……って、空気重てえなぁ」


 ビンゴ先生だった。

 ワインの香りと皮肉をまといながら、彼はカウンターにどっかと腰を下ろした。


「なになに、詩でも書いてたの? お嬢ちゃん」


 私はうっすら笑って、首を横に振った。


「書けなかった、だけ」

「へぇ~。それが一番いい詩なんだけどな。書けなかった詩。大抵のやつは書いた時点で自分の都合になっちまう」


 ビンゴ先生はそう言って、勝手にラフロイグを取ってグラスに注いだ。


「ハディート、詩ってなんだと思って書いてる?」


 私の閉じたノートをちらっと見て、ただ一言だけ静かに言った。


「──残らなかった願い、かな」


 その一言に、思わず私は目を伏せた。


 その夜、詩は誰にも読まれず、誰の願いも叶えなかった。

 けれど、誰かの心の奥で言葉になれなかった何かが確かに息をしていた。


 カウンターの隅に置かれたグラスが、小さく揺れた。

 誰の手も触れていないのに。

 それは、何かが始まりかけていることを告げる音にも思えた。


 だけど、始まりなんてものは――本当はいつだって分からない。

 気づけばもうそれは始まっていて、戻ることなんてできないところにいたりする。

 私はおそらく、()()()()()()()()()

 でもそれが何の途中なのかは、まだよく分からない。


「……今日は冷えるな」


 ビンゴ先生がぼそっと呟いて、椅子の背もたれに深く体を沈めた。

 マスターは何も言わず、空になったグラスを静かに片づけている。


 なんとなく手のひらを胸元に当ててみた。

 確かに冷えていた。でも、それはこの部屋の温度のせいじゃない。

 言葉にしなかったものが胸のどこかで凍り始めている。そんな感じ。


「ねぇ、ビンゴ先生」


 私は、思いつきのように話しかけた。

 自分でも、どうしてこの言葉を選んだのか分からなかったけど。


「……誰のためでもない詩って、あるの?」


 ビンゴ先生はちょっとだけ笑った。だけど、それは皮肉じゃなかった。


「あるさ。そういう詩は誰にも読まれない。読まれた瞬間に、意味を変えちまうからな。でも……だからこそ残るんだよ。自分の中には」


 私は小さくうなずいた。

 読まれない詩。叶えられない願い。届かない魔術。


 それでも、そこにあったもの。


「……私は、ずっと……誰かのためにしか言葉を使ってこなかった気がする」


 口にしてから、少しだけ涙が出そうになった。

 でも、泣くほどのことじゃない。感情はそこまで届いていない。ただ、どこかがきゅっと縮こまるだけ。


「だから今は書けなくなってるのかも。誰かのためじゃない言葉をまだ知らないから」


 マスターはその言葉に何も返さなかった。

 ただ、氷が沈む音だけがグラスの底に小さく響いた。


「……きっとさ」


 ビンゴ先生が、まるで誰にも向けずに言った。


「自分のための詩を書けるようになった時、本当の意味で人間になるんだろうな」


 私はその言葉を胸の奥に置いたまま、何も言わなかった。

 言えなかったのかもしれない。


 今日の私は詩を書けなかった。

 でも、もしかしたら書けなかったことが何かの詩だったのかもしれない。

 名もなく誰にも届かない詩。

 言葉にならない詩。


 静かな夜が、またひとつ過ぎていった。

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