2.脚本の魔術師達
気づいたら昼になっていた。
「はっ、遅刻した!」と、一瞬思ったが、私は首を切られていたから何ら問題なかった。
最悪だ。生き残ってしまった。
あんな胡散臭いバーで私は働くのか。本当に給与は支払われるのだろうか。
というかなんで脚本家がバーやってるんだ? 死ぬほど忙しいイメージがあるんだけどな。
あの後何杯飲んだかも何話したかも覚えていないが、めっちゃ盛り上がったのは覚えている。
とりあえず今日も行ってみるか。
*
夜22時。
誰も客が来ないと言っていたが、一応夜向けの化粧をし、ベストを着て店へ向かった。
「おはようございます……。本当に来ちゃいましたよ?」
「あぁ、昨日のお嬢さん。来てくれたんだね」
マスターは白と蒼の織りで仕立てられた、法衣にも似たローブをまとっていた。
布地は滑らかで光を拒む。
重ねられた幾何学的な模様はただの装飾ではない。記号であり、呪文であり、結界そのものであった。
胸元には深紅のスカーフのようなものが垂れている。
それが唯一、彼に人間味を残すようにも、逆に人間ではないことを際立たせるようにも見えた。
袖口と裾は重たく、歩けば音を立てるほどに質量を持っていた。
それでも彼の動きは静かで、その衣はまるで意志を持っているかのようになびいた。
マスターは座りながら大きな杖を左手に持っているが、何か違和感に気づく。
机にあるノートと万年筆だ。
万年筆が、勝手に動いて文字を書いているのだ。
「なっ、えぇっ!? マスター魔法使えるんですか!?」
「魔法じゃなくて『魔術』。間違えないでくれ」
「どっちにしろ凄いじゃないですか!?」
マスターは深いため息をつき、定義を説明する。
「魔法なんていうのは――おとぎ話に登場する、無垢な心が奇跡を起こすという幻想の戯れ言だ。我々が扱うのは魔術――意志と象徴、数と儀式、そして血と詩によって、現実を意のままにねじ曲げる術。魔法は神の祝福だが、魔術は神そのものを内に宿す行為だ。幼子は魔法を夢見て眠り、魔術師は意志を研ぎ、目覚めたまま夢を支配する。奇跡ではなく、構築された変化を選ぶのだ。それが真の魔術だ」
「うーん、よく分かんないけど高次な話というのは分かった」
「本当に詩人か君は……」
「いやいや、詩人って言っても魔術は知らないですよ。私ポンコツですし」
「言っておくが、君は使える側の人間だぞ」
ヤバい厨ニ病に当たっちゃったと思ったらガチで次元が違う人に当たってしまった。
非常にまずい。やっぱりあの時断っておけばよかったか~。
魔術なんてそんな大嘘……いやぁ、でも目の前で見せられてるから本当なのかなぁ。
でも、私は出来ないぞ? 魔術のまの字も触ったことないんだから。
マスターは、ため息をつきながらもどこか楽しげだった。
彼はノートの上で動く万年筆に目をやり、そしてこちらをじっと見た。
「……魔術は言葉と意志で世界の構造を書き換える技術なんだよ」
「……つまり?」
「Final Emberを飲んだ時、詠っただろう。あれはな、象徴としてこの世界に作用したってことさ」
「……あんなしょうもない詩が?」
「そう。詩は魔術の母語だ。誰にも教えられてないのに、あの場で自然にそういう言葉を出せた。それができるってことは、君は既に書いている側なんだよ。無意識に」
「でも、そんな……私、ただの詩人ですよ?」
マスターは静かに笑い、万年筆が書いた文字を手に取り私に見せた。
『ただの詩人?
だったら聞くが、君の詠んだその言葉で、
君自身の気持ちが変わったんじゃないか?』
「それが魔術の本質さ。世界を変える前に、自分の内側から変わる。詩とはその入口であり、君はすでに扉を開けてしまったんだよ」
ああ、間違いない。この人はプロの脚本家だ。
現実と空想の境界線を、まるで息を吐くように飛び越えてくる。
いま語られた言葉だけで、この場に物語を立ち上げてしまった。
世界を書き換える力――つまり、それが魔術だ。
そりゃあ、プロになんかなれるわけだ。現実の方が物語に引っ張られている。
私が感心している間に、滅多に開くはずのないバーの扉がカラン、と開いた。
「よう、ハディート。今日旨いウナギ食ってきたから、お前にも――って、女!?」
入ってきたのは、鋭い目付きに肩の張ったジャケットを羽織った貫禄のある男だった。
第一印象は完全に極道だ。何人も殺めてそうな雰囲気がある。
「あぁ、大先生。〆切間に合ったんですね」
「そりゃ俺は脚本の大魔術師だからな。それより、この可愛い女は客か?」
「金がないらしいから雇ってあげたんだ」
「こんな陰気臭い地獄のバーに人雇ってどうすんだ。常連は2人しかいないし。まぁ、君は可愛いから合格だ」
初対面なのに頭をポンポンされた。彼氏以外にされるのは初めてだ。ちょっと照れるな。
「は、ハディート? というかマスターが言ってた脚本の大魔術師さんってこの方だったんですね」
「俺がいない時に俺の説明したのかお前。なんて言った?」
「某ライダーや某戦隊モノを今も一線で書いている大魔術師、と」
「うん、合ってる。ドンブラとかりゅうk……」
「あーーーー!! このバーで正式名称は言っちゃダメ!! 現実に作用しちゃうから!!」
大魔術師の前ではマスターは意外とお茶目である。さっきまでの威厳がどこかに消えてしまった。
……ん? そうか。
もしかして、これは大魔術師にこの場所を書き換えられてしまっているのか?
「何が悪いっていうんだ、ねぇ? 俺とバーの宣伝になるからいいじゃないか」
「いやぁ、暇な方がいい……」
「コイツ、仕事舐めてるよなぁ? お前もそう思うだろう?」
「商売としてバーやっている以上は……ねぇ」
マスターがやる気ないバーなんてそんなことあるかと思ったが、そういえば金ならあるって言ってたからこれも道楽に過ぎないのかなぁ。
「まぁいいや、好きにしろ。ラガヴーリン出してくれ」
「はーい」
ローブと杖を置いたあと、ラガヴーリンと割材の水を大魔術師に渡した。
「今日はな、初めてだし仕事しなくていいから一緒にウナギ食べよう」
「えっ、いいんですか?」
「ちょっと、僕のために買ってきてくれたんじゃ!?」
「いいだろきs……お前は。いつも食ってんだから」
「僕の本名言いかけましたね大先生。絶対言わないでくださいね」
口酸っぱく自分らに関わる固有名詞を言うのを禁じている。
「……なんで本名言っちゃダメなんですか?」
「さっきも言ったけど、現実に作用してしまうんだ。真なる現実に……」
「あー、お前名乗る名なくて困ってるなら『ヌイト』って名乗れ。ハディートとバランス取れるから丁度いいよ」
「それだとラー・ホール・クイトになっちゃうんだって」
「ここでおっぱじめないでくれよ!?」
「するわけなかろう。ハプバーじゃあるまいし」
何を言っているかさっぱり分からんが、二人で盛り上がっている。
「まぁまぁ、せっかくウナギ買ったんだからうまいうちに食おう。東京じゃ珍しい直焼きのやつだから、早く食わないとパリパリ感がなくなっちまう」
箸でつまむと、皮の焦げ目がカリリと鳴いた。
関東の蒸しでは味わえない直火の記憶がそのまま焼きついている。
噛めば外は香ばしく、中は脂がとろりと広がる。
味の芯に宿るのは、獣でも魚でもない――熱の形だ。
「若干冷めてるけど、それでもこんなに美味しいとは……」
「こういうのは魔術じゃ難しいからな。食に対する腕がないと」
あっという間にウナギが無くなってしまった。これだったらいくらでも食べたい……。
この日はひたすら食の話で盛り上がって、気付けば午前4時になっていた。
窓の外は、夜の黒に少しだけ白が混ざり始めていた。
魔術も酒もよく分からなかったけど、ウナギと詩と、誰かと笑える夜は、確かにここにあった。
それで今夜は、もう充分だ。