19.冷徹、果敢、沈黙、溌剌
いつもより長めです。
その夜のAshveilは、何かがおかしかった。
照明が滲んで見えるわけでも酒が切れているわけでもない。
マスターが煙草をふかしながら静かにグラスを磨く姿も、いつもと同じだ。
……なのに、妙に空気がざわついている。胃のあたりが騒いで落ち着かない。
「ねぇマスター、今日……なんか空気キツい感じしません?」
「気のせいじゃないさ」
「ですよね!? 圧がすごい……」
「今日は荒くれ者が集まるからね」
「荒くれ者……?」
私の問いにマスターは苦笑した。
「東京の八方のうち、北側の守護者たちさ。四人、全員来る予定だよ」
「えっ……!? そんなに来るの?」
「そうだね。来てほしくない人たちばかりだ」
その言葉と同時に、入口のベルが鳴る。
ギィ……と扉が開いた瞬間、明らかに店内の結界が震えたのが分かった。
「は~~~、やってらんないわほんと……この店来るたびに吐き気がする」
最初に現れたのは、黒に近い紫のワンピースを纏った女だった。
口紅の色は血のように濃く、ハイヒールの音が無駄に美しい。
でも、開口一番がそれってどうなんだ……。
「あんた、魔術師じゃなくてただの発情脚本家でしょ? もうこの監察局から出禁にしたいわ」
「それは初耳だな。新作の肩書きにしようか」
「は? 殺すわよ」
ワインボトルを自分で冷蔵庫から引っ張り出し、無言でグラスに注ぐ。
誰も止めない。多分、止めたら殺される。
「ハッハ~、今日も姐さん絶好調だなァ~!」
次に入ってきたのは、虎のスカジャンを着たヤンキーみたいな男だった。
煙草の煙とウィスキーの匂いを纏い、入店と同時に場の空気を騒がしくする。
この人、絶対マナーって言葉知らない。
「マスター、なんでもいいから酒くれ! 今日の俺は冴えてるぞ! お前の詩、二行で論破できたからな!」
「だったらその論破に乾杯しよう」
「上等!!」
その次に入ってきたのは、重たい足音とともに沈黙を連れてくる五十代前半の男だった。
無言で焼酎のボトルを棚から取り出し、何も言わずにマスターの前に置く。
「……」
「……いらっしゃい」
軽く頷き、煙草に手を付けた。
なんでこの人、喋らないのに一番威圧感あるの……?
きっと、喋ったら燃やすタイプの人だこれ。怖い怖い。
「よっ! 今日も仲良くやってる~?」
レイだ。
やっと、まともな人が来た……と、安堵したのも束の間。また例のフォルムになり、どや顔で見せつけてきた。
「お嬢さん、ここ地獄みたいでしょ? でも大丈夫。地獄にも酒はあるから」
「フォローの仕方がおかしいんだって」
北側の四人が揃った瞬間、空気の密度が倍になった気がした。
マスターは相変わらず黙って煙草を吸いながら彼らを見守っている。
その姿を見て、ベリタスがグラスを片手に毒づいた。
「さっさと自分が何やったか弁明でもしたら? この場にいる資格あると思ってんの?」
「……弁明なら、君たちの酒が空いた頃にでも」
「クソみたいなタイミング狙ってんな」
誰一人、笑っていない。
でも、誰一人席を立たない。
私は場の空気に呑まれながら、そっとマスターに耳打ちした。
「……今のうちに確認してもいいですか? この人達が全員『北側の神』ってやつです?」
「あぁ、そうだよ」
マスターは灰皿の上で煙草を揉み消し、新しい一本に火を点けながら淡々と説明を始めた。
「まず一人目――さっきから毒ばっか吐いてる女。彼女は北の守護者、《ベリタス》」
マスターはグラスを磨きながら、煙草を口にくわえたまま呟くように言った。
まるで隣人を紹介するような気軽さなのに、口にしているのは神の名前。
胃のあたりの違和感がまたひとつ強くなった気がする。
「魔術倫理の監視者。性魔術や詩的構造を秩序の破壊と見なしている。つまり、僕とは敵」
……なるほど。めちゃくちゃ腑に落ちた。
あんな絶対殺すみたいな空気出してたのはそういうことか。
「でも、観測精度はトップクラスだよ。……敵に回すと本気で面倒なんだ」
その声はまるで業務上の評価みたいに冷静だったが、口調の奥にある面倒の重みだけはリアルだった。
「次に現れたスカジャンの男、あれが北西の守護者、《ガルザ》」
彼はバーに着いてからずっと笑っている。酔って来ているのも原因だと思うが。
スカジャンの虎が本当に吠えそうでちょっと怖い。
「力の系譜を継いだ兄貴分……というか、魔術と喧嘩を同列に考えてるタイプ」
あー……やっぱりそういうタイプか。
魔術を理論じゃなくて殴り合いの言語として使ってる顔だもんなぁ。
絶対に喧嘩売っちゃいけない相手だ。
「口は悪いけど、感覚で詩が効くかどうかを見抜く力がある。逆に怖いね」
詩が効くかどうか……って薬の効能みたいに言うのか。
でも、あの人に「効いたわ」とか言われたらちょっと誇らしい気もする。
……いや、それは毒されてるな私。
「で、無言で焼酎持ってきたのが北東の守護者、《イグナス》」
名前に納得しかない。語感からして火の気配しかしない。
むしろ、今この店が燃えてないの奇跡では?
「炎の龍の化身。レイの父親。……僕が過去に一番怒らせた男だよ」
その言葉を聞いて、私は思わず目を見開いた。
怒らせた本人を前に何でこの人こんなに平然としてるの……。
「彼の口から詩が出たら、その時点でこの店は火の海だ」
さらっと怖いこと言わないで!? 詩って、そんな危険物なの!?
この人たち、なんでそんな爆弾みたいなもんを詩とか感情とか呼ぶの!?
「でも、今日は酒があるから大丈夫……だといいけどね」
だといいけどね、ってそんな無責任な……。
「最後に来たのが君の知ってるレイ。北東の青龍」
マスターの声色が少しだけ柔らかくなった。
あぁ、この人にとってレイって例外なんだなって思った。
「つまり……イグナスが父、レイが子なんですね」
私はそう言いながら、焼酎を傾けるイグナスの背中をちらっと見た。
あの無言の圧……レイと親子って言われなきゃ絶対分からない。
「彼らはもちろん普段は人間として生きている。だが、感情が高ぶると神の姿が出てしまう。特に北側は荒い」
……なんか納得した。あの人たち、神っていうより獣って感じがするし。
でも、人間であろうとする努力があるから、かろうじて人としていられるんだろうなって思う。
「陽の神はどうしても感情に引っ張られるんだよ。北側はみんなそうだ」
……陽の神。
その言葉には、どこか眩しさと脆さの両方が宿っていた。
「だからこそ……今日みたいな夜は、気をつけて」
マスターの声は、静かでどこか詩のような余韻を残していた。
「……ちなみに、今夜彼らがここに集まった理由は単純だよ」
「なんですか?」
「僕のことが好きじゃないからさ」
その言葉を聞いて、思わず口の中のジンジャエールを吹き出しそうになった。
マスターはそれを見てほんのわずかだけ笑ったような気がした。
「――で、今もまだ脚本なんて書いて生きてるわけ?」
ベリタスの声が、氷の刃みたいに空気を裂いた。
「仕方ないだろう。生きるためにはそうするしかなかった。魔術以外で向いているのもそれくらいしかないしな」
「――死ぬよりマシだった?」
ベリタスがグラスをテーブルに置いた音が、やけに大きく響いた。
「それで自分を許したつもり?」
ワインの液面が揺れている。
けれどそれ以上に揺れていたのは、彼女の声に込められた怒りの理屈だった。
「魔術ってそんなに甘いもんじゃないのよ」
彼女は冷たい目でマスターを見た。
でもその視線は、まるで昔から知っている相手を睨むような苛立ちも含んでいた。
「思った通りに世界が動いてくれる力。それがどれだけ傲慢か分かってる?」
グラスのふちを指でなぞるように、彼女は静かに言葉を滑らせる。
「脚本だの詩だのってラベルを貼って、魔術じゃありませんって顔して……それで何人壊してきたのか教えてくれない?」
ガルザが、くくっと笑った。
けれどその笑いには、まるで火種みたいな苛立ちが混じっていた。
「キャラ設定、台詞、演出――全部、構造の操作じゃねえか」
彼は指でカウンターをトントンと叩く。まるで何かのリズムを刻むように。
「お前が書いたその物語ってやつで、誰が救われて誰が狂った?」
間が空いた。
マスターはグラスを磨いている。無言のまま表情すら読めない。
「なぁ、答えてくれよ。それが魔術じゃなくて何なんだよ」
横にいるイグナスは酒に口をつけず、ただ煙草を指で潰した。灰すら散らさずに。
その動作だけで「この人は怒ってる」と分かった。
「魔術は、存在の定義から始まる」
彼がぽつりと落としたその言葉は、誰より重かった。
「名前を与える。役を割り振る。脚本ってのはそれと同じだ」
そして、火の気配をまとわせたまま、視線だけをマスターに向ける。
「自覚がないなら最悪だ。あるならもっと悪い」
沈黙が落ちた。
私はその場に漂う魔術師たちの会話に圧倒されていた。
誰も怒鳴っていない。
でも、全員が明確な殺意を言葉に込めている。
それでも、マスターはようやく静かに言葉を吐いた。
「……それでも、書くしかなかったんだ」
声は静かで、諦めと少しの罪悪感を含んでいる。
「他の生き方が分からなかった。言葉で人を動かすしか、生きていけなかったんだ」
私に言っているわけではなかった。
でも、それはかつての誰かに語りかけているようにも聞こえた。
「それが魔術だったなら、僕は魔術でしか人と関われなかったってことだろうね」
言葉の終わりに、グラスを拭う手が止まった。
私はそれを見て一言発した。
「……じゃあ、私もその魔術の中にいるんですか?」
その声は小さかった。
でも、空気を切るには十分だった。
「私の今も、マスターの脚本に書かれてるものに過ぎないんですか?」
ベリタスは私をじっと見た。
その視線は鋭利だが、どこか探るようでもあった。
「貴女は……違うわ」
ぽつりと彼女は言った。
「貴女はハディートのお気に入りなのに、魔術をかけた痕跡がない」
グラスを持ち直し、ベリタスはわずかに目を細める。
「だから、むしろ気味が悪い。いつもの彼なら魔術の贄としか思ってないのに」
マスターは黙っている。
その横顔はただ静かで、何も背負っていないようにすら見えた。
だけど、私には真意が分かっていた。
何も言わないことですべてを飲み込んでいるのだと。
重苦しい空気の中、レイがグラスを鳴らして言った。
「……なぁ、ちょっと待てよ」
全員の視線が彼に向く。
空気を和らげるような、けれど決して軽くはない声音だった。
「……言っとくけど、俺は別に詩も脚本も嫌いじゃねぇよ?」
私に向かって、軽く肩をすくめてみせる。
「確かにマスターの脚本は狂気と紙一重だけど――でも、それに救われたやつもいるのも事実だろ?」
誰も応えない。けれどレイは言葉を止めなかった。
「魔術だってさ、そもそも善悪の道具じゃねえだろ。使い方が歪んでるだけで、感情を整える手段にもなれるはずなんだよ」
そこで、一拍置いてからマスターの方をちらりと見る。
「……で、こいつは壊す側の書き方をしてきた。それは正直嫌いだけど……でも、それでしか生きられないってんなら、俺は責められねぇ」
私のグラスにもう一杯カルヴァドスを注いでから、彼はゆっくりと言葉を結んだ。
「たださ、ハディート。お前の呪いがまだ終わってないってんなら……その脚本、そろそろ閉じてもいいんじゃねぇの?」
それは一見何気ない台詞だった。
けれどマスターの指先が、ほんのわずかに震えた。
そして私もまた、グラスの中に映る自分の目を見つめながら思った。
マスターは、呪いと知りながら仕方なく言葉を綴ってるんだ。
誰かを救うためでも、壊すためでもなく――
ただ、死なないために。
「……なぁ、ベリタス姐さんもさ、もうちょいだけ待ってくれよ」
レイは苦笑まじりに言った。
口調こそ軽いが、その声にはちゃんと龍の血が流れていた。
「あんたがそれ言うの……へぇ。それが本当に呪いにならなきゃいいけどね。まっ、知らない方が良いこともあるか」
そう発した後、ベリタスはそっとイグナスに目線で話しかけた。
だが、彼は返事をする気はなさそうだった。
ただ静かに、まるでこの場全体の熱量を測るかのように空になったグラスを見つめている。
やがて長い沈黙を破って、ベリタスが再び口を開いた。
「――あんた、ほんっとに変わったわね。昔はもっと、なんていうか……傲慢で、破滅的で、見てるこっちが冷めるくらい自分勝手だったのに」
マスターはグラスを磨きながら、少しだけ苦笑を浮かべた。
「今も似たようなもんだよ。変わったんじゃない。……変わるほどの余白すら、もうないだけだ」
「はぁ、詩人気取りの言い訳まで板についてきたのね」
ベリタスは呆れたように鼻で笑う。
けれどそのまなざしから、怒気は少しだけ抜け落ちていた。
ガルザが唐突に笑い出す。
煙草を指で弾き、火種を落としながら言った。
「まぁまぁ、ええじゃねえか。俺らが何言ったところで、こいつは自分の破滅にしか興味ねぇんだよ。自分で爆弾組み上げて、爆発はまだかって待ってる奴に、火の扱い方説いても無駄ってなァ!」
「それは……否定できないな」
マスターの声は静かだった。
けれど、自嘲でも諦めでもない不思議な透明さがあった。
イグナスが立ち上がる。
無言のまま灰皿に煙草を押し当てると、ちらりと朱音の方に目をやった。
ただ一瞬。それだけだった。
だが、それだけで十分だった。
その視線には、見ているという重さがあったからだ。
そして、ベリタスも一緒に立ち上がる。
冷えたワインのグラスを軽く揺らし、マスターを見た。
「書き終えなさい。中途半端に逃げたりしたら――私が直々に回収するから」
その声音は、処刑執行人の宣告だった。
けれど、それはある種の猶予でもある。
ガルザも立ち上がり、肩を回してから一言だけ残した。
「次は……もっと酔わせてから語らせてくれよ、マスター。お前の詩、効きすぎんだよ」
そして、イグナスが扉に手をかけ――振り返ることなく低く呟いた。
「お前が過去に選ばなかった結末は、今でもそこに落ちてる。拾うかどうかは……あの女次第だな」
誰もそれに答えない。
そして扉が開き、夜の冷たい風が入り込み――また、静かに閉じた。
*
扉が閉まったあとも、レイは店に残っていた。
誰よりも軽い足取りでここに来て、誰よりも空気を読む。
そんな彼が、まだ帰らないというだけで少しだけ夜のざわつきが和らいでいた。
カウンターに肘をつけて、ゆるく笑う。
「ま、あの三人はあれでも手加減してた方だからさ。……命あるだけ、今日も儲けもんだな」
軽口に聞こえるけど、その言葉の端には――ほんの少しだけ、悲しさが滲んでいた。
マスターは何も返さなかった。
ただ、灰皿の中の煙草の火が静かに消える音だけが聞こえた。
レイは立ち上がり、コートを羽織る。
「お嬢さん。……あんたの詩も、そのうち誰かを救うぜ」
そう言って、軽く手を振る。
でも、出口に向かう足はほんの少しだけ重たかった。
この場所が誰かの呪いだけでなく、祈りの場所でもあることを分かっているように。
「じゃ、また水曜な」
夜の街に雷の気配はなかった。
代わりに――ほんの一瞬だけ、青い尾が彼の背から揺れた気がした。




