18.因果律の調べ
その夜は、いつもより風が強かった。
春がまだ迷っているような風――そんな空気の中で、私はひとりで店を開けた。
マスターは遅れて来ると言っていた。理由は言わなかった。
なんとなくそういう日もある。
23時を過ぎたころ、一人の男が扉を開けた。
五十代後半くらい。スーツはよれよれで、ネクタイも歪んでいたが、不思議と顔だけは整っていた。
どこか昔の詩人みたいな匂いのする人だった。
目がどこか遠いところを見ていて、現実に触れていないような。
「一杯だけでもいいかい?」
「もちろん」
私は静かにカウンターの奥からグラスを出し、いつものように手を添える。
その時、ほんの少し指先に熱が走った気がした。
ただの錯覚かもしれなかったが、グラスが少しだけ重く感じられた。
「娘がいたんだよ。……もう十年も前に、事故でいなくなった」
男は突然、そんなことを言った。
私は黙って頷いた。
目を見て話すほどの力はなかった。
でも、手元のグラスからは目を離さなかった。
「最後にちゃんと話せなかったんだ。あの子、まだ高校生だったのに……言えなかったな、ありがとうも、ごめんな、も」
言葉の端々に、過去を何度も反芻して擦り切れたような柔らかさがあった。
それは諦めでも受容でもなく、今でも口にしているという事実に本人が気づいていないような感じだった。
私はゆっくり、ボウモア12年を注いだ。
琥珀色の液体が静かにグラスに満ちていく。
その間も、男はずっと目を伏せていた。
「……あの子、好きだったんだ。桜が。昭和記念公園によく連れて行っていた」
男はそう言って、指でグラスの縁をなぞった。
目はもうこの店の中にはなかった。
過去の桜の下、多分ベンチの横か何かに今も座っている娘を見ていた。
「桜の匂いってさ、どこかで咲いててもすぐに分かるだろ? ……あれ、あの子が見つけて教えてくれるんだよ。いつも」
私の手が知らずに止まっていた。
氷がグラスの中で小さく音を立てる。
それを聞いて、男は少しだけ笑った。
「不思議な話かもしれないけど、春の夜風に混ざるとね匂いだけじゃなく声が混じる。『こっちだよ』って、耳元で囁かれるような気がするんだ」
私は返す言葉を見つけられなかった。
けれど、なぜかその情景が――見えた気がした。
桜の木、濡れた土の匂い。ベンチ。風で揺れる髪。
誰かが振り返って、私を呼ぶ……。
違う。
私はそこにいなかった。
でも、誰かがいた記憶だけが胸の奥に差し込んで、すぐに霧のように溶けていった。
「言えなかったんだ、ありがとうも、ごめんな、も」
男の声がまた、今に戻ってきた。
「ま、言っても仕方ないけどね。……もう会えないし」
ふと、グラスを撫でていた自分の指がいつの間にか冷たくなっていることに気づいた。
けれど、グラスはほんのりと温かかった。
不思議な反転。魔術めいた因果。
男は酒を一口飲んだ。
その顔は笑っていなかったが、泣いてもいなかった。
男はそのまま、しばらくグラスを眺めていた。
何かを言おうとして、けれど言葉が浮かばないような顔で。
やがてそっと立ち上がり、私に向かって何も言わずほんの少しだけ会釈をした。
言葉がなかった分だけ、あの夜の空気に溶け込んでいった。
扉の鈴が鳴る。
外の風がいっそう冷たくなっていた。
私はグラスを片付ける気になれず、そのままカウンターに残した。
まだ、温もりが残っている気がしていた。
その時だった。
扉が再び音を立てて開いた。
「おーい、まだ開いてるか?」
聞き慣れた妙に調子のいい声。
大魔術師だ。ぴっちりと決めたスーツが今日も似合っている。その後ろからマスターが黙ってついてきていた。
大魔術師は顔が少し赤く、鼻の頭はほんのり火照っていた。
「大魔術師と同伴していた。どうせ客も来なくて暇だっただろう」
「マスター、遅いですよ」
私は呆れたように言った。
マスターはカウンターの奥へ入ると、当然のように立ち位置についた。
コートを脱いでも、表情ひとつ変わらない。
目も肌も温度の乱れを感じさせない。
……本当に酔ってるのかすら怪しい。
「大魔術師が無理に連れ出したんだよ」
「いやぁ、この歳になると誰かと飲み食いしないと寂しくなっちゃってな」
大魔術師が笑う。
「それにしても……なんだ、今日のこの店は妙に空気が柔らかいな。いや、違う。正確には何かが終わった後の空気だ」
私は無意識に、さっきのグラスに目を向けた。
まだ、洗っていない。
洗えない。
たった一杯の酒のはずなのに、まるで記憶が染みついたみたいで。
「……誰かいたのか?」
「さっき一人だけ。静かな人だった」
「ほう……」
マスターがグラスを見て、鼻を利かせるように空気を吸った。
「生気は……もう消えてしまっている。何をした?」
「何もしてないよ」
そうは言ったが、声が揺れているのが自分でも分かった。
「……そうか」
マスターがぼそりと呟いた。
彼は棚から何も言わずに一本のボトルを取り出し、使っていないグラスにほんの少しだけ酒を注ぐ。
それは誰のものでもなく、誰にも出されない盃だった。
「献杯か?」
「いや……ただの癖だよ」
マスターは答えた。
それ以上は何も言わず、グラスを奥の端に滑らせて置いた。




