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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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17.陰に潜む観測者

 マスターはぼそりと呟き、グラスを棚に戻した。

 その音がやけに硬く響いた気がした。


 カウンターの女は、それに反応するでもなくただ静かに立ち上がった。

 動きは滑らかで、何かが浮いているようだった。重力の感覚が少し狂ったような――そんな違和感。


「初めまして。()()()()()()()()()()()()


 彼女は言った。

 声に抑揚は少ない。だが不思議と耳に残る。

 感情を排したような音なのに、その沈黙の温度がやけに冷たくてくっきりとした印象を残す声だった。


 私は一歩だけ距離を詰めるように近づき、言葉を探した。


「……南東を守るって、つまりあなたも八方のを守る一人ってこと?」

「そう解釈されても構いません。正確さは、対話において優先されるべきものではないので」


 言葉の選び方すら、体温がない。

 彼女は「説明」ではなく「情報」を出している――そんな話し方だった。


 リヴィアはほんのわずかだけ目線を上げ、私を見た。

 その瞳には曖昧な光が浮かんでいた。

 それは感情ではなく、()()()()()()()()だった。


「セラフについて、報告に来ました。――彼は、マスターの魔術体系を参考にして構築された派生魔術の使い手です」

「……え?」

「つまり、彼はハディートの魔術を模倣し、それを完成形に近づけようとしている。本人が意識的にそうしたのか、あるいは無意識の中で辿り着いたのかは分かりませんが……意志と構造のレベルで、彼らの魔術は驚くほど似ています。あの痕跡を見る限りは」


「……ふん」と、マスターが低く鼻を鳴らした。

 否定も肯定もしない。ただの反応にしては、少しだけ間が長い。


 私は言葉を失った。

 模倣。完成形。

 それはつまり、マスターの魔術が不完全だという前提だ。


「マスターの魔術……って、不完全なの?」

()()()、と言うべきかもしれません。彼の魔術は極めて独創的で、美しい構造をしている。けれどその核心には、()()()()()がある」

「確定の……拒否?」


「えぇ。彼の魔術には、どこかに常に選ばない自由が組み込まれている。あらゆる結果を曖昧にし、固定しない。だからこそ、彼の術は完成に至らないのです」


 私はその言葉に妙な納得を覚えていた。

 マスターの態度、会話、沈黙……そのすべてに一貫してあったもの。

 明言しないこと。決めつけないこと。

 彼の生き方そのものが、魔術に宿っている。


「……それで、セラフは?」

「彼はそれを否定しました。選ばない自由ではなく、ただ一つを選ぶ強さこそが魔術の完成であると考えた。だから彼は、ハディートの術を土台にして自分の術式を固定させた。それが、彼の魔術に宿る狂気です」

「……なるほどな」


 マスターがぽつりと呟いた。

 それが初めて口にした評価だったが、そこに含まれる感情は読めなかった。

 リヴィアの言葉に背筋がじわりと冷えた。

 狂気。それは、完成と紙一重のもの。


「つまり……セラフの魔術って、マスターの進化系みたいなもの?」

「そう呼んでもあながち間違いではありません。ただし、それは進化というより極端化です」


 リヴィアはそこで口を閉じた。

 言葉の終わり方が終止符ではなく省略のようだった。

 彼女は何かを言わない選択をした――そう思った。


 沈黙が落ちる。


 マスターは相変わらず、奥でグラスを拭いていた。

 話の内容はすべて聞いていたはずなのに、彼はあえて何一つ答えなかった。

 けれど、ほんの一瞬だけ彼の拭いていたグラスの手が止まった気がした。

 マスターの横顔をちらりと見て、私はふと口を開いた。


「……ねぇ、マスターとリヴィアってどういう関係なの?」


 言葉に棘を含ませたつもりはなかったけど、思った以上に空気に揺れが走った気がした。

 マスターは動きを止めず、「なんだ急に」とぼやいた。

 けれど、目だけはこちらを見ない。

 その反応が妙に引っかかった。


「付き合ってたとかじゃないですよね?」

「……ないですよ」


 先に答えたのはリヴィアだった。

 相変わらず淡々とした声。

 けれど、その言葉には少しだけ切り捨てるような早さがあった。


「彼は選ばない人です。私は、選ばれる必要のないものだった。――ただ、それだけのことです」


 私にはそれがどういう意味なのかすぐには掴めなかった。

 けれどマスターは、それを聞いても何も返さなかった。

 異論がないというよりは、その通りだとどこかで受け入れているような顔だった。


「じゃあ友達?」

「……袂を共にする研究者だ」


 今度はマスターが返す。

 言葉というより息に近い答えだった。


「俺の魔術が今みたいな形になったのも、()()()()()()()()()()

「見られた?」

「リヴィアの魔術は観測だよ。彼女が見ることで、世界の形が一段階確定に近づく」

「それは……魔術としてすごいってこと?」

「えぇ、そうですね」


 リヴィアが静かに頷く。


「すごい、というのは少し不正確ですが……ハディートの術のように、曖昧なままでは保てないものもあります。見たという行為が、魔術においてはときに最大の干渉になり得ることも」


 私はそこで、ようやく少しだけ腑に落ちた気がした。


 マスターは「形を決めない魔術師」。

 リヴィアは「見てしまうことで、形を決めてしまう観測者」。

 だから二人は一緒にはいられなかった。

 けれど、お互いがなければ成立しない部分もある。


「……面倒臭い関係だね」

「そうだな」


 マスターが、肩をすくめた。


「……それでも、助かってることはあるよ」

「こちらも同様です。貴方の曖昧さは、時に救いでもありますから」


 リヴィアの言葉に、マスターは何も返さなかった。

 ただ、拭いていたグラスを棚に戻し、新しい酒を注ぎ始めた――

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