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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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16.運命を導く者たち

夜を裂く銀糸の声よ

聞け――名を失った星々の残響を


指先に刻め。影よりも静かな記憶を

言葉の形で、決して語られぬ真実を


塩を撒け、月の裏側へ

酒を注げ、沈黙の心臓に


これは契約

痛みを差し出し、代わりに忘却を得る術式


ひと匙の水

ひとしずくの血

ひとつまみの夢の欠片


それだけでいい

それだけで、すべては霧の中へ還る


……だが忘れるな

何かを失うということは、

何かがこちらを見ていたという証だ――



*



 2ヶ月ぶりに大学時代の同期からメールが来た。


()()、元気にしてる? あの相談した後、実は会社の同期と結婚してさー、結婚式来月なんだけど来る?』


 結婚……。

 もうそんな歳になってしまったか。お互い様だけど。

 あの相談というのは、いわゆる恋愛相談だ。

 自分で言うのもなんだが、恋愛は得意だ。……とはいえ、遊びだけね。



*


 去年の12月末。

 その夜、朱音は珍しくカフェでの待ち合わせを選んだ。

 夜の街は静かで、ガラス越しの街灯がテーブルの上に薄く伸びた影を照らしていた。


「で、どうしたの? あんたから話あるなんて珍しい」


 向かいの席には麻帆。

 大学時代からの同期で、恋愛には無頓着なタイプだと思っていた。

 そもそも、彼女が男の名前を出すのを朱音は数えるほどしか聞いたことがない。


「……好きな人ができたんだと()()


 麻帆はそう言って、カップのミルクティーを見つめたまま視線を上げようとしなかった。


()()?」

「うん。……なんか変な感じで。ドキドキするとか会いたいとか、そういうんじゃないんだけど。すごく安心するっていうか、そばにいるのが自然で……」


 それを聞きながら小さく笑った。

 可愛いな、と思った。自分でも意外だった。

 まぁ、私には二度と思うことのできない感情だったからかもしれない。


「それさ、好きって気づくまでに時間かかるタイプの恋じゃない? 珍しいじゃんあんたにしては」

「私にしては、ってなにそれ」

「いや……ごめん。そういうの、あんまり考えない人だと思ってたから。面倒臭いって切り捨てる系だったし」


 麻帆は照れ隠しのように笑って、少しだけ目を細めた。

 その仕草が妙に印象に残った。


「……でも朱音ってさ、正直こういう話する相手としては逆に経験豊富すぎて不安だったんだけど」

「何それ。酷くない? 一応プロよ?」

「そう。だから怖かったの。なんか……自分がすごく子供に思えて」


 その言葉には、演技じゃない素直さがあった。

 私は一瞬返事に詰まった。

 今まで何十人と付き合ってきたけど、この感じは一度もなかった。

 麻帆の不器用な本気が、やけに静かで眩しかった。


「……じゃあさ」


 朱音はストローを口から外しながら言った。


「試しに付き合ってみたら? その人と。分かんないまま始めた恋も、案外ちゃんと恋になるよ。結婚できるんじゃない?」

「そんなもんで結婚できる?」

「そんなもんでしょ。だって恋愛なんて、始まりがどうとか関係ない。最後にどうなるかでしか、価値って決まらないんだし」


 麻帆はしばらく何も言わず、視線を下げていた。

 けれど、カップの縁に沿って指をなぞりながら小さくうなずいた。


「……なんか、朱音に言えて良かったかも。もう私も歳だし結婚したいなぁ~」

「言うの遅いよ。いつでもウェルカムだったのに」

「でもさ、あんた……誰かの相談受けるより自分の恋の話してる方が似合うじゃん」

「それは否定できないけど……案外、人の恋バナも嫌いじゃないのよ」



*



 私はその夜のことを、妙に鮮明に覚えていた。

 麻帆があんな顔で恋を語ったのは、多分あれが初めてだったからだ。

 まさか、それから2ヶ月で結婚なんて言葉が飛んでくるとは思いもしなかったけれど。



 今日は珍しく20時から店の予約が入っていたので、急ぎ足で店へ向かう。

 外は冷たい風が吹いていたが、歩いているうちにそれも気にならなくなっていった。

 心のどこかで麻帆の名前が何度も反響していた。

 結婚――誰かがたどり着いた場所。それは私にとって、どこか永遠に遠い地名のようだった。


 店の入り口に着くと、もう明かりが灯っていた。

 マスターが先に開けていたらしい。カウンターにはうっすらと水拭きの跡があり、煙草の匂いが漂っていた。


「早かったな」


 奥からマスターの声がした。

 その声がいつもより低く聞こえたのは、気のせいだろうか。

 あるいは、厨房の隅にもう一つの気配があったせいかもしれない。


 扉を閉めると、客とすぐに目が合った。

 見知らぬ女がカウンター席に一人座っていた。

 年齢はよく分からない。髪は新緑のように美しい緑色、瞳の色は妙に淡い。灰でもなく青でもなく、かといって完全な無色でもない、どこか曖昧な光を孕んでいた。

 明らかに一般人ではない。もしかして……。


 彼女は静かにこちらに目を向け、軽く会釈した。


「マスターの……知り合い?」


 私がそう訊くと、マスターは黙ってグラスを拭きながら頷いた。



「彼女は魔術師……いや、神だ。東京の南東を守る――ね」

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