15.陶酔の杯
今日はいつも通り大魔術師とビンゴ先生が飲みに来ている。
週3でAshveilに飲みに行かないと不安定になるらしい。マスターは何か怪しい魔術でも使っているのか?
大魔術師が差し入れで日本酒を持ってきてくれたので、4人で飲み合っている。
わざわざ飲むために100万円する骨董品の徳利と杯まで持ってきていた。
「これ、雑味がなくて水のように飲めちゃいますね」
「『洗心』って言ってな、刺身とか天ぷらと一緒に食うのがいいんだよ。知り合いの蕎麦屋に天ぷら作ってもらったからお前らも一緒に食べろ」
『ありがとうございます!』
3人声を揃えて礼をし、天ぷらに手を付ける。
天ぷらの衣が箸を入れた瞬間にさくりと音を立てて崩れた。
中からは湯気が立ち上り、衣の香ばしさと一緒に海老の香りがふわりと鼻をくすぐる。
舌に乗せた瞬間、衣の奥からじゅわりと油が広がって全身が小さな幸福に包まれる。
けれどその余韻も「洗心」が静かにさらっていく。
ただの酒じゃない――これは、心の奥まで澄ませるための酒だ。
「うん、やっぱり『洗心』はいいね……。飲んでいるうちに、体の奥から余計なものが流れていく感じがする」
大魔術師が言った。杯を傾けたまま、どこか遠くを見るような目つきで。
その視線の先にあるのは今ではない時間だ。
若い頃かもしれないし、あるいはもう戻らない誰かの横顔か。
「酒に感情を預けるってのは、ある意味魔術みたいなもんだよな。錬金術的に言えば、アルコールは精気を帯びた物質で、生命の原理の根底にあるものだからね」
ビンゴ先生もぽつりとつぶやく。
酒精と精霊――
どちらもSpiritusと呼ばれるのは、きっと偶然じゃない。
言葉が静かに落ちてしばし沈黙が降りた。
沈黙もまた良い肴になる。
「……ただ飲むだけのものじゃないからね」
マスターはそう言って、自分の分を注ぎ足した。
澄んだ透明な酒が徳利から杯に細く流れ、ふわりと漂う香りに誰もが一瞬目を閉じた。
心をほどくには、言葉よりも一杯の酒のほうがいい夜もある。
酒が沈黙に寄り添い、静かに人を緩めていくのを誰もが知っていた。
グラスの中の「洗心」は、光に透けてわずかに揺れていた。
誰も急がず、誰も急かさない。
それぞれが自分の時間で呑んでいた。音楽も、会話も、空気に溶けていくように控えめで、静かだった。
「こういう夜が、何よりの魔除けになるんだよな」
大魔術師がぽつりと呟いた。
誰に向けた言葉かは分からなかった。
けれど、言葉に引きずられるように一瞬、全員の視線が宙を泳ぐ。
何から身を守っているのか?
何に追われているのか?
皆、それを口にはしない。けれど分かっていた。
日々の生活という名の薄明の中で、誰もが何かに蝕まれている。
「洗心」――名前が示す通り、それは心を洗うための酒だった。
言葉ではどうにもならないものを、喉の奥に流し込んでただ一晩をやり過ごす。
マスターの動きがふと止まったのは、その直後だった。
手元の所作はいつも通り丁寧だったが、徳利を置く音が少しだけ遅れて響いた。
ここ数日、マスターはどこか落ち着きがなかった。
客前では隠しているが、カウンター裏でふと手を止める回数が増えている。
頭の中に、何か別の計算式でも走っているような――そんな沈黙がある。
私は黙ってもう一口だけ「洗心」を口に含んだ。
その冷たさが胃の底にすとんと落ちていく。
春のはずなのに、夜の空気はどこか硬くて冷たかった。
空気が張っている。気温の問題じゃない。
まるで、誰かが息を殺してこの店を覗き込んでいるような、そんな夜だった。
「しかし……この店でこうやって日本酒を飲むのも不思議なもんだな」
ビンゴ先生が笑う。
「なんとなく、もっとこう……煙草の匂いとモルトの匂いしか似合わない場所だと思ってた」
マスターが大魔術師が持ってきた杯をぐるりと見回して、「まぁ、たまにはこういうのもいいだろう」と、冗談めかして返す。
その声にかすかな揺らぎが混じっていたのは……気のせいだろうか。
「それはそれとして、この骨董品の徳利……100万円って本当なんですか?」
私が恐る恐る訊くと、大魔術師はにやりと笑って、「オークションでな。あと10秒遅れてたら負けてた」と、誇らしげに言った。
「中身が一升1500円でも、この徳利に入ってたら2万円くらいの味になるからな」
「そういう使い方するならもう徳利がメインじゃないですか」
場が和やかに笑い声で満ちる。
酒がうまい、料理もうまい、そしてたまには愚痴や思い出話も飛び出す。
そんな夜を、春は時々ちゃんとくれる。
……それでも、空気にはどこか削り取られた跡があった。
無理に明るくした室内の陰に、誰かの記憶の破片みたいなものが残っている気がする。
気配のような、残滓のような――何か。
ふと、マスターの眼差しが鋭くなる。
ほんの一瞬、彼の目が店の奥を誰もいない扉の方を見た。
まるでそこに何かを確かめるように。
だが、すぐにそれも消える。
彼は何も言わず、再び酒を注ぎ始めた。
熟練の手つきで、無駄のない動きで――けれど、その所作にはどこか祈りに似た静けさがあった。
「……静かですね」
私は何の気なしにそう言った。
けれどその言葉が、どこかを打ったような音を立てて場に落ちた。
大魔術師も、ビンゴ先生も、微かに目を細めた。
空気が止まっていた。何かが終わって、まだ始まっていない時の隙間に落ち込んだような――。
「春ってのは、芽吹く前に一回死ぬからな」
大魔術師がぽつりと言った。
私は「死んだふりをしてるだけ」と、続けようとしたがやめた。無礼なような気がしたからだ
意味深な言葉は、彼の口の中で一度噛み砕かれて酒の中へ沈んだ。
ただ、マスターの眼差しだけはまだどこか遠く――
今夜の闇の先に何かがいるとでもいうように、時折鋭さを取り戻していた。
それは、音も立てずに忍び寄る未来への警戒か、あるいは忘れ去られた過去の亡霊か。
けれどそれに触れる者はいない。
たとえ彼の友人であっても――今夜は、酒を味わうだけにして。
言葉が何も救わない夜には、沈黙と杯がいちばん優しい。




