14.不運な狂信者
この店には大魔術師が週3回は来ているので、マニアにとってはある種の聖地となっている。
彼が置いていった酒、絵画、フィギュア、自身のアクスタまで置いてある。
……ちなみに、アクスタは予約分完売したらしく、今やプレ値になっている。
なんで脚本家のアクスタが売れるんだ? よく企画者もOK出したよなぁ……。
今日はそんなマニアが一人、カウンターの端でそわそわと落ち着かない様子で座っていた。
リュックには缶バッジがいくつもついていて、その中には明らかに自作と思われる大魔術師のファンアートまで貼られている。
……間違いなくガチの方だ。
「僕、ここに3回来たのに3回とも会えてない……」
彼はため息混じりに呟いた。
その目には本気の落胆が宿っている。
もはや、心の芯から湧き上がる推しに会えない痛みというやつだった。
「……君はかなり不運だね。ほんの10分前に彼は帰ってしまったんだ」
マスターは淡々と告げたが、その声には微かな同情も滲んでいた。
あの飄々としたマスターでさえ少しだけ気の毒に思ったのだろう。
ファンの肩が明らかに落ちるのが分かった。椅子の座面に埋もれてしまいそうなくらい、気力が抜けていた。
「東京で某ライダーのイベントがあるたびに仙台から来て寄ってるんですけどねぇ……あぁ、悲しい」
わざわざ東北から、しかもイベント終わりに……。熱量は本物だ。
我ながらそんなに不運な人間いるか? と、思ってしまった。
けれど、推し活とは本来そういうものであり、報われなさも込みで愛おしいのかもしれない。
「……うん、君はあまりにも可哀想だからこれをあげよう」
マスターは、静かにカウンター下から一枚の紙を取り出して彼に手渡した。
一見するとただのレシートのように見える。けれど、裏面には何やら不可解な……いや、異様な絵が描かれていた。
その横にひらがなで可愛らしくサインがあった。
「こ、これは……?」
「大魔術師が『最もプリミティブな絵』として描いたものだ。どうやら女性らしいが……頭が猫みたいになっているからおじさんにもよく分からない……」
その絵は本当に原始的だった。
輪郭も崩れ、線は震え、色もない。ただのレシートの裏に、鉛筆でざらっと走らせたような雑なもの。
けれど、そこには一種の狂気と祈りが混ざっていた。
受け取ったファンの目が見開かれ、次の瞬間、興奮のあまり体が跳ねる。
「えっ!? こんな貴重な絵貰っていいんですか!?」
「ファンに渡した方がこの絵も嬉しいだろう」
マスターは軽く笑って、煙草に火を点けた。
その仕草はいつも通りなのに、なぜかとても儀式的に見えた。
「ありがとうございますマスター!! 神棚に飾っておきます!!」
ファンは手を震わせながら絵を大事に仕舞った。
その様子はもはや信仰だった。
彼の中では大魔術師=神なのだろう。
もしかすると、本当にそれくらいの存在なのかもしれない――このバーにおいては、特に。
*
2杯飲んで客も帰り、バーカウンターを拭いていた。
湿ったクロスがカウンターの木目をなぞるたび、夜の静けさがじわじわと戻ってくる。
ふと、マスターが言葉をこぼした。
「ファンが来てくれるのはありがたいが、客単価は低い……。そもそも酒を飲んで楽しむという行為をあまり理解していない」
その声音は、嘆きというより苦笑いに近かった。
名前に惹かれて来る人々に対して、嬉しさと少しのやるせなさを混ぜ込んだような響き。
「まぁ、ファンは酒飲みに来るわけではないですからね……」
私はグラスを片付けながら返す。
――飲みもしないのにバーに来る。
しかも何時間も座って大魔術師の脚本について議論し、最終的にはコーラ1、2杯で帰る人もいる。
推し活と酒場文化が交差すると、なかなかに奇妙な光景になる。
「グッズにはお金を使うのに何故……」
マスターは天井を見上げながら、ぽつりと呟く。
その視線はどこか遠い。
いまにも「ラガヴーリンの偉大さを知らぬまま死ぬ気か」とでも続けそうな雰囲気だった。
「まぁ、本人にとってはこの空間にいることが目的なんですよ」
「……存在を摂取しに来ているのか」
「そうそう、まさに存在摂取。酒はいらないんです。大魔術師のオーラが空間に残っていればそれで」
「なら空気でも売るか……」
「それはもうファンクラブのやることですね」
マスターはふっと笑った。
それでいて、片手は変わらずグラスを拭き続けている。
この店ではこうした奇妙な会話がごく自然に交わされていく。
それが日常の延長線であり、魔術の余白でもある。
「……もっと飲んでくれれば、珍しい酒も仕入れられるんだがな。実は今、珍しいカスクを一本見つけていてね」
「買えばいいじゃないですか」
「店の売上とは別の予算で?」
「彼女代を削れば」
「無理だ。遊ぶのも仕事だから」
「即答……」
そんなふうにして夜がまた、静かに更けていった。
客のいなくなったカウンターの向こう、どこか未練がましく漂うスモーキーな香りだけがグラスの余韻のように残っていた。




