13.変人の集まり
今日は買い出しがあったので少し早めに出勤した。
マスターは、というと……この世の終わりかと思うくらい項垂れて絶望していた。
でも、自動で筆は動いていた。
「な、何があったんですか……?」
「マルタが……別れようって」
マルタ? 初めて聞く名前だ。
マスターって別の彼女いたよな? その人もキリスト教由来の名前だった気がするが。
「あんな清純ドスケベ今まで会ったことない逸材だったんだ……。舌遣いがあまりにもテクニシャンで、このおじさんですらバッキバキになっちゃうくr……」
「あーはいはい。風俗かなんかの話ですか?」
「いや、彼女だ。あそこに拘束されていた一週間連絡できなくて機嫌損ねちゃったんだよ……」
えっ、この人股かけてるの!?
それを堂々と異性の前でよく言えるなぁ……。自分はヤバい奴ですって公言してるようなものじゃないか。
あぁ、そうか。マスターは元より頭飛んじゃってるからいいのか。
「まぁまぁ、もう一人いるからいいじゃないですか。クリスティーナでしたっけ?」
「いっぱいいるけど、あの子は名残惜しいんだよ……」
「えっ、ハァっ!? 何人いるんですか!?」
「うーん」と、言いながら指を折って数えている。
「7人かな?」
「大丈夫なんですかそれ……? 金目当てじゃない?」
「金目当てもいるが、正直性魔術に使えるんだったら僕としては問題ないから……」
あまりにもさらっと「性魔術に使える」と言い放ったので脳が混乱した。
マスターは相変わらず魔術で筆を走らせながら、まるで「今日は天気が良いね」とでも言うような口調で話していた。
「性魔術に使えるって……それ、どういう……」
「いやいや誤解しないでくれよ? あくまで媒体として適性があるかどうかって話であって、何も酷いことをしてるわけじゃない」
「……してないんですか?」
「多少はしてる」
「してるんじゃないですか……!」
この人、倫理観がどこに置いてあるのかほんと分からない。いや、最初から持ち合わせてないのかもしれない。
脚本家としても魔術師としても一流かもしれないけど、人間としては……今さらか。
「でもまぁ、君みたいな人間には理解されなくて当然だよ。倫理っていうのは、位置によって変わるものなんだ」
マスターは煙草を口にくわえ、灰皿を引き寄せながらぼやくように言った。
「僕らの世界では、感情も欲望も媒体でしかないことがある。痛みだって同じさ」
「いやいやいや……でも、じゃあマルタさんとか他の人も……その……」
「君が思う通りだが、それを感じさせないように振舞うのが紳士というものさ」
「……そりゃあ、マスターに彼女が7人いても不思議じゃないわけだ」
ため息をつきながら私は冷蔵庫のドリンクの補充に向かった。
片手でボトルを並べながら、ついもう一度訊いてしまう。
「で、そのマルタさんはどうやって付き合うことになったんですか?」
「ん? ナンパ」
「ナンパ……?」
「うん、教会で」
「いやもっとヤバいじゃないですか!!」
「ははっ、すごく敬虔な子だったよ。でもね、そういう子ほど魔術には素質があるんだ。信仰と魔術は実は遠くない」
その言葉に、私は冷蔵庫のドアを閉める手を止めた。
――信仰と魔術。
確かに似ているような気もする。
目に見えないものを信じ、言葉や儀式によって力を借りる。
願いを託し、形なきものに命を与える。
でも、それはやっぱり全然違うと思った。
どこがとは言えないけれど……違う。
「まぁ、マルタはもう戻ってこないだろうけど次があるさ。失うことに慣れれば、魔術師としても少し強くなれる」
マスターはそう言って軽く笑った。
けれど、その笑みは少しだけ滲んでいた。
……本当に名残惜しいと思っているのだ。
マスターにとって「愛」もまた魔術の一部なのかもしれない。
「……やれやれ、今夜は静かだといいんだけどな」
「誰か来そうなんですか?」
「いや……そういう予感がするだけさ。春ってのは、変な奴を呼び寄せるんだ」
そのまましばらく黙って煙を吐いた。
やっぱり、今日もこのバーはどこか普通じゃない夜を迎えるらしい。
――そう思った矢先、ガラッと乱暴に扉が開いた。
「ここかぁっ! 脚本の魔術師がやってるバーっていうのは!!」
大声に私もマスターも身構える。
だが、その名乗りにマスターは少し目を細めた。
多分魔術的な何かがないか見てるんだと思う。
けれど、その表情はどこか――肩透かしを食らったようでもあった。
「……君、普通の人間だろう?」
「あぁ、そっち側じゃないってのは分かってる。でもなんか……ここ、放っとけなかったんだよ。来なきゃいけない気がしてさ」
彼女はそう言って、ジャケットの内ポケットから履歴書を取り出した。ぐしゃぐしゃに折れたそれは、明らかにコンビニのコピー用紙に書かれた即席のものだった。
「バー経験も一応ある。あと、酒めっちゃ好き。強いし常連ウケもいいって言われるよ」
そう言いながら、今度はボトル棚を見上げて指差す。
「……あのバランタイン、開けていい?」
「ダメだ」
即答だった。
アヤは少し肩をすくめて笑った。
「そっか。だよね、はは」
マスターは履歴書を受け取るでもなく、カウンターに肘をついたまま、静かに言った。
「この店はね、雰囲気に惹かれる人がよく迷い込んでくる。でも、ここで働くっていうのはちょっと違う話なんだ」
「……何が違うの?」
「簡単に言えば、外の人間には少し過ぎた場所なんだよ。ここは」
アヤはその言葉を一瞬考えて、それから真顔で言った。
「つまり、私には何かが足りないと」
「逆に、君にはそういうものがないからいいんだ」
その言い回しが意味するところは分からなかったが、どこか救いのようにも聞こえた。
アヤはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「そこの女性は魔術師なの?」
「えーっと……あぁ私は――」
なるべく話に入らないようアメスピのアガットを吸って気配を消しているつもりだったが、ついに触れられてしまった。
別に、私は魔術師でもなければ脚本も分からないただの金のないろくでなしである。
……なぜかマスターには気に入られているけれど。
だが、ここで魔術師じゃないって言ったら変だからなぁ……と、考えていたらマスターが私より先に返答してしまった。
「彼女は魔術師だ」
「えー! すごい! 名前はなんて言うの?」
「……真名を教えるにはまだ早いな」
「名前教えてくれないの!? 名前で呼ばれないといろいろと不便じゃない?」
……そういえば、マスターは私のことを名前で呼んでくれた記憶がない。源氏名とかもない。
君……としか呼ばれていないような気がする。
なんで名前で呼ばないんだ? マスターの事だし元カノに同じ名前がいて呼びにくいとか?
「彼女は名のある魔術師だからね。そう簡単には教えられないよ」
「そっか。じゃ、また飲みに来ていい?」
「もちろん」
マスターは一切ためらわずにそう言った。
彼女は満足そうに笑い、軽く片手を上げて扉へ向かう。
出ていく直前、ふとこちらを振り返る。
「……あんたら、本当に魔術師だな」
と、ひとことだけ呟いて出ていった。
ガラン、と静かな扉の音だけが残った。
マスターは肩をすくめて言った。
「……春はやっぱり変なのを呼ぶな」
「面白そうな人でしたけどね。……そういえば、彼女が来る前に何書いていたんですか?」
「ん? あぁ、プロットだよ」
手帳を手渡されたのでペラペラとめくってみる。
しかし、全てミミズみたいな綴り字で書いてあり、何語で書いてあるかすら判読不可能であった。
「なっ……こ、こんなに汚い字で読めるんですか!?」
「筆者だからな」
「え……じゃあこれ何のプロットなんです?」
「これは4話目。5人による半額弁当の争奪戦を書いている。君、フランス語は読めないのか?」
「読めませんよ。もし読めたとしても、ロシア語の筆記体みたいに書いてある文章なんてマスター以外読めませんからね?」
「はは……脚本ってのは、まず読まれないところから始まるんだよ。だから、書きたいように書けばいい」
マスターはそんなことを言いながら、指先で手帳を閉じた。微かな音がして、まるで何かが封じられたように思えた。
「で、その半額弁当の争奪戦はどうなるんです?」
「勝者は手に入れるが何かを失うんだ。概念的には飢えの逆数、つまり……満たされすぎた空虚、かな」
「それ、本当にグルメ系アニメの話ですか?」
「アニメの話かつ魔術の話だ」
また始まった……という感じで私は目を伏せる。
けれど、心のどこかでマスターの話が妙に気になってしまうのもいつも通りだった。
「じゃあ、なに? その半額弁当ってただの弁当じゃないんです?」
「意味を持たないものなんてこの世にあると思うかい?」
返ってきたのは質問だった。
そういうと思ったぜ! と、言おうとしたけれど、口には出さなかった。
「何の魔術の象徴なんです?」
「選択だよ。人は空腹を満たすために奪い合う。けど、その先にあるのは――飢えを忘れてしまった自分自身さ」
マスターはポケットから煙草を取り出して火をつけた。
吸い込んだ煙がゆっくりとカウンターの空気をくぐり抜け、ただ静かに昇っていく。
「……春って、本当に変な話ばかりしますね」
「春だからだろう。季節のせいにしておけば大体は許される。変人も、詩も、脚本も、恋もね」
店の外からかすかな風の音が聞こえた。
もう夜のはずなのに、どこか暖かい匂いが混じっている。
「……さっきの彼女、また来ると思います?」
「うん、来るだろうね。気に入ったものを簡単に手放すような顔じゃなかった」
「働かせてくれって言ってましたけど?」
「それは断ったよ。君と役割が被るしね。アレに厨房任せたら、うちのグラス全部割れる」
マスターは苦笑しながら、グラスのひとつを取り出しクロスで丁寧に磨いた。
「……それにしても、さっきの君には何かがないからいいって話、覚えてる?」
「え? えぇ、まぁ……なんとなく」
「それはまだ持たされていないって意味でもあるんだよ。魔術ってのは、ある種の責任を背負わされる儀式でもある。名前が魔術としての意味を持ち始め、本来の力が発揮できるようになったら――」
「……だから私に名前で呼んでくれないんですか?」
「呼んでもいいんだが……来てはならないモノが近づいてきそうでね」
煙草の火が静かに揺れ、マスターは目を細めて空を仰いだ。
私は何も言えずにその言葉を聞いていた。
それが真実なのか、ただの比喩なのか――その境界線すら、もう分からなくなっていた。




