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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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12.揺らぐ境界線

 家に帰り、そのままベッドへ直行する。

 今日は変に疲れた。接客するのが久々だったからというものあるが。

 メイクオフするのも面倒である。若いから一日くらい落とさなくたって大丈夫だろう。

 コートも脱がず毛布の上に倒れ込んだ。

 まぶたの裏に、ラフロイグの香りとマスターの横顔が残っている。

 あの人は、本当に……何を見てるんだろうな。


 何かがじわりと胸に引っかかったまま、意識が緩やかに闇へと沈んでいった。



*


 ――幽玄たる桜並木。

 誰一人いない深夜のさくら公園。

 本来であれば用事もなく入ってはならないのだが、この景色を独り占めしたかったから入ってしまった。


 ……いや、私は寝ているはずだ。()()()()()


 月明かりが計ったかのように桜を照らしている。

 枝の先まで花をつけたソメイヨシノが風もなく静かに立ち尽くす。

 その一片が何に導かれるでもなく、ひとつ、またひとつと落ちていく。

 降り注ぐというにはあまりにも静かで、むしろ天から零れ落ちる何か――

 命のような、記憶のような、そんなものにも見えた。


 昔、小学生の時に学校行事でここで花見をやっていたなぁ。

 あの時はまだ隔離されていた人々と話すことができたが、今はどうなっているのだろうか。


 桜の下にあった、朽ちかけたベンチ。

 そこに座っていたおばあちゃんと交わした会話を今でも覚えている。

 その人は、やたらと手のひらを見せたがっていた。

「ここに春があるんだ」と、呪文のように。

 今なら、少しだけ分かる気がする。



「こんばんわ。お嬢さん――」



 振り返ると、薄手の黒いコートを着た30代くらいの男が立っていた。

 足元まで届くようなロングコート。襟は高く立てられ、顔の輪郭を半分だけ隠している。

 だが、それよりも目を引いたのは彼の右手に握られた異様に長い杖だった。

 装飾のない黒檀の軸。先端にはねじれた金属が禍々しく絡みつき、中心には澄んだ水晶が浮かぶように埋め込まれていた。

 まるで星の意志を閉じ込めたようなそれは、ただ持っているだけで風景が歪むように思えた。


「こんな夜にひとりで散歩とは……風邪引きますよ」


 その声はやわらかい。けれど、どこか歯車の噛み合わない親切だった。

 彼の微笑は表情として整いすぎている。人間らしさを後から貼り付けたみたいだった。


「あなたは……誰ですか?」


()()()()」と彼は言った。


 その瞬間、耳の奥で何かがきしんだ。

 名を名乗るだけの一言に、なぜか体温がすっと下がるのを感じた。

 

「君には真名を伝えないと失礼だからね。また逢えて光栄だよ」

「え、えーっと……どこかで会ったことありましたっけ?」

「一度だけ。君は覚えていないだろうけどね」


 彼は一歩ずつ歩み寄ってくる。

 足音は不思議と響かない。

 この夢の世界に、彼だけが別の法則で存在しているかのようだった。


 退くのも不自然なため、少し身構える。

 けれど次の瞬間、彼はふっと身体をかがめ、私の肩を――静かにそっと抱き寄せた。


 驚いて反射的に逃れようとした。

 けれど、力はなかった。

 彼の腕は冷たくも熱くもない。

 温度ではない何かがそこにあって、それは確かに私を包んでいた。


 初めて会ったはずなのにどうしてだろう。

 心の奥の古い引き出しを撫でるような安心感がある。

 記憶にはないのに知っている気がする。

 遠い昔に、この腕の中で眠ったことがあったような――そんな錯覚。

 彼から漂うほのかな白檀の香りがそう思わせているのだろうか。


「……君の中にある器は、魔術によって本来の力が発揮される。けど、今は不完全な状態だ」

「そう言われましても……」


 声を絞り出すように返すと彼は微笑んだ。

「よく頑張ったね」とでも言うように、ゆっくりと手を解いていく。

 けれど、その腕の余韻はしばらく私の背中に残り続けていた。


「少しだけ痛いかもしれないけど、私が手助けしてあげよう」

「えっ、何を――」



 彼が杖を握りしめたその時、不意に腹部の奥――身体の中心に、鈍い重さが沈んだ。

 じわじわと広がっていくような、ねっとりとした圧迫感。

 痛みと呼ぶには弱すぎるが快適とは言えない。

 何かが内側から蠢いているようなそんな違和感があった。

 もっと……意志を持った何かが、底に触れているような感覚だった。


 夢のはずなのに体の芯が冷えていく。

 重さと緊張が波のように押し寄せては引いていくたび、現実と夢の境界線が曖昧になっていく――


「何を……したんです?」

()()()()()()。慣れればそんなに痛みを生じないんだが……最初はどうしてもね」


 そっと私の左手を取り、甲に軽くキスをした。

 その仕草はどこか古い物語の登場人物のようで、現代の所作には思えなかった。


「もうすぐ夜が明ける。また逢おう、ね」


 ウェイトがそう囁いた瞬間、風がふっと吹いた。


 ――桜が、舞った。


 それはただの花びらではなかった。

 夜の帳に融けるような、白とも薄紅ともつかない光。

 一枚、また一枚と、私と彼のあいだを隔てるように舞い落ち視界を覆っていく。


 そして次の瞬間、男は最初から存在しなかったかのように跡形もなく消えていた――



*



 不思議な夢と共に起きた。

 既に11時半。ほぼ昼である。

 腹が減った……と思うより、ショーツに()()()()()()()()()()


 恐る恐る股を指で触ってみた。

 ……案の定、赤黒い血がべったりとついていた。

 あ~もうだるいって~。この量ってことは敷布団まで染みちゃってるじゃん。

 まぁ、生理近かったのに敷いてない私が悪いんだけど。なんで早く来ちゃうかなぁ……。

 こうなってしまうとスピード命。とりあえず服を着替え、血の付いたものを洗濯機に突っ込んだ。

 敷布団は……気合でポンポンして血の色を薄くした。朝から重労働である。

 ただ、おかしなことになぜか腹だけではなく()()()()。ほんのちょっとだが()()()()()()()()()

 一日目は少ないとはいえ、こういうのは初めてだな……。



 ようやく落ち着いてリビングの椅子に座った時、ふと手の甲が目に入った。

 あの夢の中で、彼――ウェイトが口づけた場所。


 赤くなってるとか何か印があるとか、そういうのは一切ない。

 ただ、微かにひりつくような感覚がよぎった。

 夢の中だけの出来事。そう言い聞かせても、どこかに残っている実感。

 私はじっとその手の甲を見つめた。

 もう痛くも痒くもないのに、目を逸らすことができなかった。


 ――たかが夢。


 そう思ってしまえばそれで終わりなのに、どこかで確信している。

 あれは、単なる夢なんかじゃない。

 ただの悪夢にしては、あまりにも……心地良すぎた。

 そして、今もなお背中にはうっすらと彼の腕の感触が残っている気がする。


「……また逢おう、ね」


 そう言っていた。

 次はいつ、どこで。

 そんなことを考えている自分が、正直少し気持ち悪かった。

 けれど、止められない。

 私は、もうあの夜の桜の下から戻ってこられないのかもしれない。


 遠くで風が唸った。

 窓の外の木々が、何かの影を振り払うようにざわめいていた。

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