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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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11/54

11.秩序の外側

 翌日。この日は春一番が吹いて、とても暖かい一日だった。


 昼間、窓を開け放って掃除をした。風がカーテンを巻き上げ、室内の埃を陽光の中に躍らせた。

 季節が変わる気配が、空気の中にはっきりと混じっていた。


 けれど、夜になると空気は一変する。

 《Ashveil》の扉を開けた瞬間、暖かい外気とはまったく異なる冷たさが肌に触れた。

 それは温度の話じゃない。静けさとか、重みとか、そういう種類の冷たさだ。


 マスターはすでにカウンターの中に立っていた。

 今日はいつも通りの白シャツに黒のベスト。そして胸元には、見慣れたモノクルが光っている。

 あの後も何事もなかったように、彼はここに戻ってきた。

 何も語らず、何も崩さず、ただ変わらぬ所作で酒を拭き、グラスを整え、空間を整える。


「おはようございます」

「おはよう。……あぁ、今日は来るよ。二人とも」


 そう言った直後、扉が開く。


「よぉ、ハディート!」


 先に入ってきたのは大魔術師――脚本界の大先生。

 そのすぐ後ろを、ビンゴ先生が無言でついてくる。いつものことだ。


「今日は風強かったですね~」

「春一番ってやつだな。季節の変わり目はいつも厄介だ」


 大魔術師は肩のジャケットを脱ぎ、いつもの席にどかりと腰を下ろす。

 それだけで空間の重心が変わるような気がするのは……気のせいじゃないのかもしれない。


「今日はウィスキーじゃなくて……あれにしよう。ハディート、Milk & Misery ある?」

「あるにはあるが……あれをこの陽気に飲むとは、相当な物好きだな」

「バレンタインの余韻ってやつだよ。愛も甘さも苦さも、一滴も残さず味わいたくてね」

「大魔術師が甘いカクテル飲むなんて珍しい……」

「まぁまぁ、たまにはコイツが考えて作ったカクテル飲んでやらないと可哀想だろ?」


 私はくすりと笑いながら、三人分のドリンクを用意した。

 大魔術師には《Milk & Misery》、ビンゴ先生にはウンダーベルグのソーダ割り、マスターにはいつものラフロイグ。

 私はまだ飲まない。今日は少し、見ていたい気分だった。

 飲み物を並べ終えると、大魔術師は手元のグラスを見てふっと笑った。


「これさ……名前つけたやつ、やっぱお前だろ?」


 マスターは煙草に火をつけながら、「あぁ」とだけ応じた。


「Milk & Misery。甘さと惨めさを、ひとくちずつ。……これ、女泣かせるために作っただろ?」

「そんな器用なこと僕にできると思うか?」

「いや、できると思うね。お前、器用じゃなくて狡猾だからな」


 そのやり取りにビンゴ先生が「やれやれ」と肩をすくめる。口元には微かな笑みがあった。


「なんでここに来るとみんな自分の感情を簡単に喋るんですか?」


 私がぽつりと呟くと、マスターはちらりとこちらを見た。


「逆だよ。喋っていい空間だからみんな喋るんだ」

「そんなに……特別な場所なんですかね?」

「少なくとも、外よりは静かだ。静けさには言葉が宿る。うるさいとそれは全部かき消される」

「……ふうん。適当言ってるなぁ」


 そう言いながら、大魔術師がグラスの縁に指をなぞらせた。


「静かすぎるのもたまに怖くなるけどな。何も起きないってことは、次の何かのための準備って可能性もある」

「その通り。静寂ってのは、だいたい嵐の前にしか存在しない」


 ビンゴ先生がソーダ割りを口に運びながら答える。

 そのあと、ぽつりとビンゴ先生が言った。



「――そういや、セラフの話聞いたよ」



 一瞬で空気の色が変わった。音が少し遠のいたように感じた。


「……あまり軽く口にするもんじゃない」


 マスターの声は低い。警告というより身構えるようなトーンだった。


「まぁ、ここで話しても大丈夫だろ。現場にいたやつが知り合いなんだ。中央に一度出向した人間でな。話が降りてこないって言ってたた」

「降りてこない? 監察局が情報を出さないってことか」

「そう。報告書には例の百舌鳥の早贄みたいな遺体写真すら載ってなかったらしい。隠してる。いや、隠さなきゃいけないレベルってことだろうな」


 大魔術師は、カクテルを舌で転がすように味わいながら低く息をついた。


「ハディート、お前は知ってるんだろ? ……セラフってやつの正体」


 マスターは、その問いにすぐには答えなかった。

 煙草の灰を静かに落とし、グラスを一度傾けてからようやく口を開いた。


「知っている……かもしれない。でも正体って言葉は意味がないよ。あれは、そういう風に語れない存在だ」

「人間じゃないってことか?」

「さぁ、どうだろうね」


 私も含め、誰もすぐには言葉を続けられなかった。

 そして、マスターは静かに目を細める。


「セラフは、僕たちが魔術師という概念を持ってからずっと……その外側にいた。外にいるのに、なぜかこちらを知っている。僕たちを、すでに知っていたように振る舞う」

「つまり……監察局の目が届かない、ってこと?」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。違う平面にいる。例えるなら、我々が文字で構成された世界にいるとしたら、奴は音でできている、みたいな」

「……そう聞くと余計に怖いですね」


 私の言葉にマスターはうっすらと笑った。


「怖がるべきだよ。僕たちが概念を編むことで成立している存在なら、概念に干渉できないものは――全てを壊せる」

「……それがセラフ?」

「さぁね。僕も会ったことはないんだ」


 その言い回しに、何か妙なひっかかりを感じた。

 ないではなく、まだとも取れるような言い方だった。

 そのとき、グラスの中で氷がカランと鳴った。大魔術師がそっとグラスを置く。


「……で、セラフの目的はなんなんだ?」


 誰もがその問いの答えを待った。だが、マスターはすぐには返さない。

 代わりに、煙を吐きながら小さく呟いた。


「目覚めさせるためだと思うよ……直感的に」

「感情で語るお前って珍しいな」

「感情じゃない……これは感覚だよ。もっと深いところの警鐘」


 ビンゴ先生が飲み干したグラスを置き、低く息をつく。


「……なんにせよ、しばらくは静観だな。局も本腰を入れてる。次に何か起きたらもうあんな風に表には出ないだろう」

「そのときは僕も席を外すよ。バーを閉める」


 その言葉に、思わず私の心臓がひとつ跳ねた。


「……えっ?」

「冗談だよ。でも、冗談じゃないときもある」

「どっちなんですか……」


 マスターは笑わなかった。


 その夜は、それ以上誰もセラフの名を口にしなかった。

 音楽が流れ、ウイスキーの香りが漂い、バカ話とため息が交互に浮かんでは消えていった。

 だけど、その空気の底には確かにひとつの重さが沈んでいた。


 目に見えないだけで、何かが確実にこちらに向かって歩いてきている――そんな気がした。


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