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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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10.Seraph

「結局、例の事件の犯人って捕まったの?」


 マスターが手元の氷をかき混ぜているタイミングで私は何気なくそう尋ねた。

 返事は早かったが、どこか重たかった。


「いいや。あれは相当頭の切れるやつがやってるから捕まえられないね」


 ラガヴーリンのグラスに口をつけたあと、マスターは低く呟いた。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 まるで、自分自身を見ているようだった――という風な言い方だった。

 マスターが半ば諦めているような相手。それだけでただ事じゃない。

 相手は魔術師としてたぶん最上位のどこかにいる。 


「でも、そんな魔術師がいたら監察局がすぐ認知するんじゃないんですか?」


 私は疑問をぶつけた。

 監察局という名前は何度か耳にしているが、そこまで抜けている組織とも思えなかった。


「データベースにも載っていない、局外者(アウトサイダー)だ」


 マスターの口からそう言葉が出た瞬間、背筋がひやりとした。


「だが、聞いてみたところ昔似たような事件が北海道や岐阜でもあったらしい。共通点は象徴性だ」

「また……遠いところで」


 つい口に出したが、それは安っぽい感想に聞こえた。

 マスターは煙草に火を点け、ゆっくりと紫煙を吐いた。


「その時も、登録されていない魔術師が猟奇的な殺人を犯したとされている。未だに捕まっていない。コードネームは――《Seraph(セラフ)》」


 その名前を聞いたとき、心の奥のどこかで何かがひっかかった。

 音の響きが、やけに静かに刺さる。

 マスターは煙の向こうをじっと見ていた。

 まるでその先にセラフが立っているかのような目だった。


「セラフって……熾天使って意味ですよね。神に最も近い存在である天使の中の最上位」


 私が思わずそう口にすると、マスターは黙って頷いた。


「名前の意味だけでいえば最も高貴で清らかなはずの存在だ。けれど……現実のセラフは、真逆だ」


 吐き出される言葉は、氷のように冷たくて乾いていた。

 バーの空気がひとつトーンを落とした気がする。

 ジャズの音が遠くなる。グラスの中の氷が急に溶けるのをやめたかのような錯覚。


「セラフが使う魔術には特徴がある。目的が極めて個人的なはずなのに、必ず()()()が残る」

「……儀式性?」

「たとえば今回の事件。遺体は高所に突き刺さっていた。()()()()()()()()()()。そういった象徴的な意味を持つ配置だ。……あれは、見せているんだ。誰かに向けて」

「誰かって……誰に?」


 マスターは一瞬だけ私の目を見て、それから目をそらすようにグラスを拭き始めた。


「……僕たち、魔術師に向けてさ」


 その瞬間、空気が変わった。

 ぞわりと皮膚の内側を冷たい何かが這い上がる感覚。

 それはただの殺人じゃない。犯罪でもない。

 もっと深く、古く、理不尽ななにかが動いている気配がした。


「じゃあ、警察とか監察局は何してるんですか?」

「彼らは動いてる。もう何人かは現場に飛ばしてるはずだ。調査部門も裏で稼働してるよ」

「でも……捕まえられてないんですよね」

「セラフは捕まるつもりで動いてないからな」


 その言葉の意味がすぐには分からなかった。

 捕まるつもりがない?

 逃げているのでもなく、隠れているのでもない?

 じゃあ一体、何のために動いている?

 私は喉の奥に詰まった疑問を、恐る恐る口にした。


「じゃあ……目的は、殺すことじゃなくて」

()()()()()()()()――かもしれない」


 その言葉が、空気を一層鈍くした。


「……誰を?」


 私が問うと、マスターの手が止まった。

 ただ、グラスを拭いていたその手がふと止まっただけだった。

 でも、沈黙は答えのように深く長く逃げ場がなかった。


 私はそれ以上問い詰めることができなかった。

 なぜなら、その問いの答えを()()()()()()()()()()()()()()()()()からだ。


 店内に流れるジャズの旋律が、遠くから聞こえる別世界の音楽みたいに思えた。

 窓の外では誰かが通りを歩いていた。きっと、ごく普通の平凡な人たち。

 だけどこのカウンターの内側だけが、まるで現実の外にあるようだった。


 マスターはしばらく黙ったまま、カウンターの上に視線を落としていた。

 氷がグラスの中でひとつ、カランと鳴った。


「……セラフには気をつけろよ」


 ぽつりと落ちた言葉は、呪いでも警告でもなかった。

 ただの――予感だった。

 淡々としたその口調が逆に怖かった。

 日常の中に潜む非日常をすでに見据えている目だった。


「……セラフって、本当はどんな奴なんでしょうね?」


 私は静かに尋ねた。知りたくない気持ちと、知っておかなければという焦燥感が交錯していた。

 マスターは少しだけ間を空けてから答えた。


「僕も知らんよ。ただ、普通じゃない。()って呼んでるけど、人かどうかも怪しい」


 マスターは黙って煙草に火を点けた。 細く、静かに煙が上がっていく。

 それ以上、マスターは何も言わなかった。

 多分、言わないんじゃなくて――言えないのだ。


 そういうことは、確かにこの世界にはある。

 知らない方がいい、語られないままの真実。


 私はその夜、グラスを最後まで空けることはできなかった。

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