第一話 双子
憂鬱だ。雨が降ってきた。
紅葉は頭に被っていた笠をくいっと少し上げる
雨は嫌いだ。自然の匂いが強調される。
今、紅葉は山の斜面を降っている。人一人通れるくらいの幅はあるが、少しでも気を抜けば転げ落ちるに違いない。最高に嫌な時分に雨が降ってきた。
雨は嫌いだ。視界も悪くなる。本当に大っ嫌いだ。
そこそこの大きさのつるっとした石を踏んだ。しまったと思った時にはもう遅かった。後ろに転んだら、そのままそりのように山の表面を滑っていった。木に当たらなかったこととすぐ側にある流れが速い川に落ちなかったことが不幸中の幸いだ。
もう何だか起き上がる気力もない。着物も泥まみれだ。このまま眠ってしまおうか。
そんなことを考えながら紅葉は目を瞑ろうとすると、目の前を白く輝いた狐が歩いているのが見えた。
飢饉になってからもう三年にもなるのだろうか。水と少々の雑穀が入ったお椀を眺めながら優馬は考える。このお椀も所々欠けていた。
双子の妹の憐と一緒にほぼ水しかない夕飯を口の中に運ぶ。
「足りないよ。」
憐は思わずつぶやく。
「言うなよ。皆我慢しているんだ。」
優馬は口を尖らせる。皆ひもじくて気が立っているのだ。
もう米の収穫の時期だが、今年も豊作は見込めない。
「憐、憐。」
優馬は暗い顔をしながら箸を舐める憐を呼ぶ。
なんだろうと思い憐が頭を上げると、優馬が変顔をしているのが視界に入って、思わず笑ってしまった。
そんな憐を見て優馬もげらげらと笑っている。
「やっぱ、つらい時こそ笑わないとだな。久しぶりに気分が晴れた。」
憐もいつもよりも表情が明るくなった。
寝よう。もう夜も遅い。寝たらこの空腹も少しはまぎれるだろう。気分の良いうちに寝よう。
憐と優馬はむしろの上に寝転がった。
農民の朝は早い。日の出とともに起きるのだ。
夕飯同様貧しい朝飯を食べたら、すぐに外に出て仕事をしなければならない。そこに子供も大人も関係ない。母と父は既に仕事に出ていた。優馬は鎌を持って黄金色に輝いた稲の根元を切って集め始めた。
軽い。籾の中に米が入っていないのだろう。
稲の束を運んでいると、村の子供の藤吉がふらふらしながら転んだのが見えた。
「大丈夫か?」
優馬は近づいて声をかける。
藤吉は顔を歪めていたが、優馬の顔を見ると何事もなかったかのように立ち上がって、そのままふらふらしながらも無言で歩いて行った。
仕方がない。いつものことだ。
仕事に戻ろうと優馬も歩くが、長身のやせ細った男の横を通り過ぎようとしたとき、手で強く押しのけられた。優馬はそのまま近くにあった水たまりに突っ込んで、頭から泥水を浴びてしまった。周りの大人はそのまま素通りしていく。
優馬は知っている。どんな状況になっても、誰も自分を見ない。自分はここに存在していない。それは憐も同じだ。唯一話しかけてくれるのは家族だけだ。それ以外の人には名前さえも呼ばれたことがない。そのくせ時々ちょっかいをかけてくる変な奴がいる。いや、ちょっかいをかけているという認識もないのだろう。
双子はタブー。それは生まれたころから痛いほど分かっていた。
優馬はいつも通り仕事に戻る。
村の大人が長老の家に集まっていた。大事な話があるとのことだ。
「皆、集まったね。大事な話というのは他でもない。恐れ多くも領主様がな、少量ながら食糧を恵んでくださるそうだ。」
歓声が上がる。誰もが待ち望んだことだ。村人たちが笑ったのは久しぶりのことだった。
「それと、あの双子の居る家には内緒にするように。」
長老は付け加えるように言った。
憐と優馬の父、冬馬は長老の家の外でこっそりこの話を聴いていた。何かおかしいと思い、つけてきたのだった。
(我々だけ食糧がもらえない…。そんな、生死に関わることなのに。)
冬馬の思考は一瞬真っ白に染まった。しかし、すぐに冷静に戻り、村人が出てくる前にその場を去った。
冬馬は家に戻ると子供が居ないところですぐに妻である秋に伝えた。
秋は茫然とした。何も考えられないようだった。しばらくして、状況を理解し始めたのか、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「どうして、私たちばかり。ごめんなさい。私があの二人を産んでしまったばかりに。」
秋は手で顔を覆って泣きじゃくる。
「そんなこと言うんじゃない。」
冬馬は慌てて秋の発言を諫める。
「あの時、どちらか一人でも殺しておけば良かったんだわ‼」
秋に冬馬の声は聞こえていないようだった。
「母さん?」
二人の気づかないうちに、優馬が近くに立っていた。
「ゆ、優馬。どうしたんだ。もう日が落ちたんだ。早く寝なさい。」
冬馬は動揺が隠しきれていない。不自然に早口だ。心臓の音がいつもよりもうるさい。今のことが聞かれていないか、そんなことが頭の中を支配した。
「分かったよ。じゃあおやすみ。」
どうやら聞かれていなかったようだ、と冬馬は安堵した。
「あの二人も、お前も悪くない。お前がつらいのは分かるが、そんなこと言わないでくれ。」
冬馬は声を絞るように言った。
「…ょう腹…。」
秋はつぶやく。冬馬は秋がなんと言ったのか聞き取れず、困惑した。
「あなた、私が皆になんて呼ばれているか知ってる?畜生腹よ。もう何年も名前で呼ばれていないわ‼」
妻のあまりの剣幕に冬馬はたじろぐほかなかった。
「あなたは比較的まともに相手してもらえているけど、私は…話しかけても口もきいてくれないし、呼び止められることさえない。あなたは分かるって言うけど、一体何が分かるって言うのよ‼」
「そもそも、私は一人殺すつもりだったのに、それを止めたのはあなたでしょう‼なんで私がこんな目に遭わなければいけないのよ‼」
冬馬は反論することも、止めることもできなかった。ただ、小さくなりながらすまない、すまないと秋に謝り続けるしかなかった。
翌日の朝、村人たちはいつもより早い時間に起きて長老の家に集まっていた。食糧を受け取るためだ。
ありがとうごさいます、と言いながら村人たちは次々と食糧を受け取っていった。
最後の一人が食糧を受け取るのを確認すると、冬馬は長老の家に乗り込んだ。
「長老、話は聞いています。どうか我々にも食糧をお恵みください。お願いします。」
冬馬はそう言いながら土間で土下座をした。
「恵むも何も、もう食糧はない。帰りなさい。」
長老は冷たく言い放つ。
「そのようなこと仰らずに。」
冬馬は粘るがないと言われるとどうしようもない。
「わしもどうにかしてやりたいが、ないものはないのだから仕方がなかろう。」
長老は悩むように腕を組む。
「このままでは我々は飢死にしてしまいます。」
「…それで?」
長老は淡々している。
「え?」
「それがどうかしたのか。」
冬馬は茫然とした。何を言っているのか全く理解できなかった。
「さあもう帰りなさい。」
長老は強引に冬馬を外に押しやろうとした。
出るまいと入り口の柱に手をついて抵抗したが、背中を蹴られてそのまま外にふっ飛ばされてしまった。
冬馬は仕方がなく家に帰った。どう秋に伝えるか、我が家はこれからどうすればいいのか、そんなことばかりが頭の中を支配した。
「帰ったよ。」
中にいる人に声をかけながら家の中に入る。その声には元気がなかった。
家の中はもぬけの殻だった。もう仕事に向かったのかと思い、水田の方へ足を運んだ。
「ねぇ、お母さん、どこに向かっているの?」
憐は秋に連れられて山の中へと入っていた。森といっても人が通れる道があって、普段から人が使っている。ただ、この時間に使う人そう多くない。
「ちょっと、神社にお参りに。早くこの飢饉が終わりますようにって、水神様にお願いしに行くのよ。憐も早くおなか一杯ご飯が食べたいでしょう。」
「うん、食べたい!でも、お父さんや優馬は来なくていいの?」
「今は男手が必要だから、あの二人は来れないのよ。」
「そっか、それもそうよね。」
憐は秋の方を見ながら無邪気に笑う。しかし、秋が憐の方を見ることは最後までなかった。
しばらく歩くと古びた鳥居が見えてきた。塗料が一切塗られていない、木がむき出しの鳥居だ。
「やっと着いたね!」
憐はうんっと伸びをする。それとは対照的に秋は無言を貫いたまま憐の背後に近づいた。
秋が憐を連れて山の中へ入っていくのが見えた。なんだか嫌な予感がした。昨晩の母のあの言葉。殺しておけば良かったというあの言葉が頭から離れない。
心配で二人の跡をつけた。二人が向かっているのは神社らしい。
古びた鳥居が見えてきた。そして二人が鳥居をくぐって境内に入っていくのも。
優馬はすぐには境内に入らず、木の裏からこっそりとのぞき見た。
優馬は言葉を失った。何が起きているのかすぐには理解できなかった。
「おか…さん…。ど…して…。」
秋は憐に馬乗りになって両の腕で憐の首を絞めた。秋の長髪が帳のように憐と秋の顔を覆う。
「あなたさえ、いなければ…。」
秋は鬼のような形相で憐を睨んだ。
憐はあまりの苦しさに涙が出た。
「あなたさえいなければ、私は普通の人間として生きていけたのに…。こんなに苦しむこともなかったのに…。」
秋の爪がきりきりと首に食い込んでいる。
「死んでしまいなさい!そのほうがあなたも楽になれるわ。人に相手にされず、名前さえも呼ばれず、まるでいない者のように扱われて、これから先もずっと惨めな人生が続くのよ。そんなの嫌でしょ?死んでしまいなさい!」
憐は昔の事を思い出していた。
お花を摘んで母に渡したことがあった。そこら辺に生えている小さな花だ。綺麗ねと言って喜んで受け取ってくれた。
飢饉が始まったばかりの頃、私の分も食べなさいと言ってご飯を譲ってくれた。今でも覚えている。とても美味しかった。
その母と今目の前にいるこの女は本当に同一人物なのだろうか。受け入れられない。受け入れたくない。
「死ね!!」
秋はますます力を強めた。
「母さん!何やっているんだ‼」
優馬が木陰から慌てて走ってきた。
優馬は秋の側まで来ると思い切り秋の脇腹を蹴った。しかし簡単に秋は憐の首から手を離さなかった。
何度も秋の脇腹を蹴った。蹴る度に秋の身体ががりがりであることを痛感する。
「私の邪魔をしないで!優馬、あなたならわかるでしょう。あなた、生きていて楽しい?」
「母さん‼」
「あなた達が双子だからこんな目に遭うの!あの時片方殺しておけば!」
優馬は思い切り体当たりをした。ようやく秋は手を放して優馬とは反対の方へ吹っ飛んでいった。
「憐、大丈夫か?」
憐の顔は涙でボロボロだが息はある。それを確認した優馬は力が抜けたような気がした。
優馬も憐も疲れ切って肩で息をしていた。
ただでさえ、村に居場所はなかったのだ。身内でさえこんなことになってしまった今、もう、村には戻れない。
「憐、逃げるぞ。立てるか?」
憐は首を横に振る。
優馬は憐を背中におぶると、よろよろしながらも道が山の中の整備されていないところへと歩みを進めた。
水田に来ても憐も優馬も秋もいないことに気づいた冬馬は、大慌てで村中を探し回っていた。
「憐、優馬、秋!いないのか?」
一日中叫びまわっていたおかげで喉がガラガラだ。
雄太郎という村人が目に入った。彼は仕事終わりで丁度家に帰るところだった。
「なぁ、うちの嫁さんと子供二人見なかったか?」
雄太郎に妻と子供の所在を尋ねた。子供が生まれてからは話す機会がめっきり減ってしまったが、それ以前は村の中で一番仲が良かったのだ。村の中でも比較的話が分かる方だろう。彼がダメだったらもう頼る当てがない。
彼が話し始めるまでの時間がとても長く感じた。ずっと走っていたせいか、心臓の音がうるさい。
「見ていないな。すまない、力になれなくて。」
雄太郎は申し訳なさそうに答える。表情から彼は真摯に答えてくれていることが分かる。
「そうか、いや、ありがとう。」
「見つかるといいな。見つけたら知らせるよ。」
「恩に着るよ。」
冬馬はそのまま雄太郎と別れた。彼は立場上能動的に行動はしないが、消極的には協力してくれるだろう。そこにかつての友情を感じると、なんだかんだこの村を嫌いになりきれない自分がいた。
一度家に戻ろう。もしかしたら皆帰ってきているかもしれない。
家に戻ると家の入口の前で秋がふらふらになりながら立っていた。
「どうしたんだ。ぼろぼろじゃないか。」
冬馬は慌てて秋の側へ駆け寄ると、肩を支えながら家の中に入る。
「優馬と憐はどうした?」
冬馬は秋に尋ねるが、どうも秋の様子がおかしい。
「山の中へ消えたわ。」
「え⁉」
冬馬は茫然としながら秋を見た。その表情に焦りはなかった。かつての美しかった姿はすっかり鳴りを潜め、やせこけた頬とカサカサの唇、そして何よりも余裕がなく、鋭くなってしまった瞳。その瞳にはいささか狂気を孕んでいた。
自分はここまで妻を追い詰めていたのかと思うと、やるせない気持ちになる。
殺そうとしたのだろうか。自分の子供を。それとももうすでに殺したのか。自分には分からない。
「探しに行こう。」
「どうして?」
秋と冬馬はお互いに信じられない物を見るかのような表情をした。
「俺は行くぞ。止められても行く。」
「どこに?いなくなってからもう何時間も経っているのよ。」
「だとしてもだ。」
「あの子たちが戻ってきたとして何になるの?私たち全員飢死にするだけなのよ!」
「それでも、15になるまで育ててきたんだ。捨てられない。俺はそんな器用な人間じゃないんだ…。」
冬馬は声を絞るように言った。
そもそも、二人が居なくなったからといって今の扱いが変わるかといったら変わらないだろう。双子を産んだという事実そのものは変わらないのだから。
秋はもう何も言わなかった。冬馬はしばらく秋の顔を見つめると、山の方へと走っていった。
「…さよなら。」
秋は冬馬を見送ると静かにそうつぶやいて、土間にあった包丁を手に取った。
とりあえず隣村へ逃げよう。歳も詐称しなければ。一つくらい違っていても問題はないだろう。
優馬は憐を抱えてよろよろになりながら山の中を歩いていた。
肩で息をしている。脚がパンパンで一歩一歩が重い。どのくらい歩いただろうか。
もう木はすっかり色づいて、足元に落ち葉が散らばっている。雨が降ってきた。まだ、小雨だが。
もう日が落ちようとしている。山の中で夜を過ごすのはまずい。早く隣の村へ行かなければ。
優馬は一歩、もう一歩と足を進める。
「優馬、私、歩ける。ありがとう。」
憐が声をかけるが、
「いや、休んでおけ。俺は大丈夫だ。それより首はどうだ、平気か?」
「うん、大丈夫よ。」
優馬は安堵した。
しばらく歩いていたが、少しずつ優馬の歩みが遅くなるのが分かる。日もほぼ暮れていた。
「やっぱり、私歩くわ。歩かせて。」
それを聞いた優馬は観念して腰を下げた。
憐は足を地面につけて、優馬の背中から体を離した。
もう、すっかり日は暮れていた。雨も盆を返したようにザーザーと降り始めていた。
近くには雨で増水した川が上流から流れていた。
「この雨だ。川に近いと危ないかもしれない。回り道をしよう。」
優馬が歩みを止めて憐の方を向いた。
その時、優馬は岩に付いた苔を踏んで、そのまま川の方へ転んでしまった。
助けようと優馬の服をつかんだ憐も一緒に巻き込まれて、川に落ちた。
叫び声をあげる隙もなかった。
どのくらい流されていたのだろうか。比較的流れが緩やかなところの大きな岩に優馬と憐は引っかかっていた。二人とも意識がない。
ふわふわとした白い靄のようなものが二人の身体を包んでいる。
それに導かれたかのように、白く輝いた狐のような動物が二人の近くに立っている。
狐のような動物はふわっと飛ぶと、そのまま靄のようなものと同化して憐の身体に吸収されてしまった。
狐が消えるとすぐに、18歳ほどに見える笠をかぶった泥まみれの青年が二人の元を訪れた。狐を追ってきたのだろう。
青年は大して驚きもせず、冷静に二人の腕をとり生死を確認した。男の方はもうだめだった。女の方も…。
「丁重に弔ってやらねば。」
青年は男の身体を持ち上げて、岩から降りようとした。すると、背後で女の死体が動く気配がした。いや、死体だったものだろうか。
「おじさん、誰だ?」
青年は大きく目を見開いて、思わず抱えていた男の死体を落としそうになった。
確かに死んでいたはずだ。
女はじっと青年の方を見つめている。その何とも言えない視線のおかげで青年は動揺から解放された。
「おじさんってね、君。初対面の人におじさんはないでしょう。俺、結構若い見た目をしているつもりなんだけどな。結構ショックだわ。」
「で、名前は?」
おじさん呼びが気になりすぎて、肝心なことを言いそびれていた。
「紅葉だ。あんたは?」
「…優馬だ。」
「優馬?意外だね。俺はてっきり君は女の子だと思っていたんだけど。」
「え…。」
優馬はあからさまにドン引きしてみせたが、紅葉の側にある男の死体を見つけると顔が真っ青になった。
自分の身体が向こうにある。じゃあこれは何だ。自分は…。
自分の身体を確認してみると、見覚えのある女物の着物、長く、綺麗に切りそろえられた黒髪。明らかに憐の身体だ。
憐はどうなってしまったのだろう。そんな不安が頭の中をぐるぐると回っている。
ただ、分かっているのことは一つ。自分が今頼れるのはこの紅葉という男だけだということだ。
「頼む。一緒に連れて行ってくれ。」
「構わないが、当てのない旅だぞ。」
今までのふわふわした雰囲気から一変して紅葉の声が低くなった。
「問題ない。俺も、当てがないんだ。」
とんでもない話を書いてしまった。