奇跡
マール村の村長トゥレグは、もう十分だと思っていた。
朽ち果てた村と、焼けただれた妻と心中する気でいた日常は、異人たちの訪問で確かに変化が起きた。
しかし、いつかあの『災害』、竜はやってくる。
きっと遠くない日に――。
希望という言葉は、マールの村には無い物だった。
レヴィアスは治安はいい国かもしれないが、国力があるわけではない。
東の獣人の集落が消滅すれば、遠くないうちに獣人たちは西に吸収されるだろう。
最近、やってきたノエルとその仲間たちは、滅びかけたマールの村であれやこれやと立ち回っていた。
妻を助けてくれたことには恩義がある。
訳ありの連中のようだが、できることはしてやりたいと思うほどには、情が湧いていた。
ある日、村の周りに山脈ができたのは確かに驚いた。
いやあ地震って怖いですよね~、地殻変動って突然起こるんですね~、びっくりですよね~、と白々しく言ったノエルは、目を逸らしながら口笛を吹いていた。
おそらくノエルたちの誰かに関係があるのだろう。
だが、トゥレグもエラも追及しなかった。
言いたくないことは言わなくてもいい。
山ができようが崩れようが、彼らがトゥレグたちの恩人であることに変わりはないのだ。
こんな砂漠の不毛な場所、見捨てられた土地に、何が出現したとしても誰も気にしない。
どのみち滅び行く土地なのだ。
トゥレグはささやかに願って、日々を過ごしていた。
もう十分だ。
どうか、竜の襲撃が一日でも遅くなりますように。
そして妻を救ってくれた恩人たちが、あの『災害』から運良く逃げ延びて、助かってくれるように――。
希望というには淡過ぎる。
だが、叶わないながらも思わず願ってしまうような、そんな光がノエルという人間には見えるのだった。
「あ! トゥレグさん! 今暇? もしよかったらちょっと来て下さい」
と、朝ご飯の最中に声をかけられた時も、トゥレグは何もおかしいと思わなかった。
きっと、壊れた家を修復できたとか、砂漠のサソリが出たとか、そのような用事だろうと思っていた。
そして、純粋な子どものようにトゥレグを連れていったノエルに、獣人の元・騎士団寮が、盛大に改築されているのを見せつけられたのだった。
「な……」
「いやー、良い感じだろ? モルフェたちが頑張ってくれたんだよ」
石造りの壁は新たに積み直され、時の流れで失われていた彫刻や装飾も、かつての輝きを取り戻している。
中庭には手入れの行き届いた庭園が広がっていた。どうやったのか、ぼろきれの積み上がっていた中庭は、今や四季折々の花々が咲き乱れ、噴水がある。
「水が!」
「おー、こんくらいならできるって、モルフェが。でもなっかなか出続けなくて……最後の方は俺も手伝ったぞ」
チョロチョロと心地よい音を立てている小さな噴水を、トゥレグは呆然と見た。
「驚くのはまだ速いぞ」
と、言ったノエルは、元・騎士団寮の裏へ、トゥレグを引っ張っていった。
少しずつ、少しずつ。
心臓が熱くなる。
あるはずのない匂いが、感覚が鋭敏になる。
こんな砂漠にはあり得ないものが、あるような。
トゥレグの耳に、サアアァァ……と、爽やかな水音が聞こえた。
「な、なっ……これは……!」
夢を見ているのだろうか。
トゥレグは目をこすった。
広大な砂漠の真ん中に突如として現れたオアシスは、まるで夢のような美しい光景だった。
透き通った水が静かに流れる池の周りには、色とりどりの花々が咲き乱れ、鮮やかな彩りを添えている。その中でも特に目を引くのは、スイートシトリンと呼ばれる獣人たちが使う伝統的なハーブだ。その香りは甘く爽やかで、風に乗って辺り一帯に広がっている。
オアシスの中心には、大きなヤシの木が何本も立ち並び、その下にはさまざまな果樹が実をつけている。
オレンジ、レモン、フィグ、デーツ……。
どれもみずみずしく熟している。
周囲にはトマトやキュウリ、カボチャなどの高級野菜まで育っている。
こんな砂漠に生えているのは見たこともない。
西の連中が観光産業にしているような果樹や野菜がごろごろ生っている。
池は澄んだ青で満ちていた。
透明な水の中をニジマスが悠々と泳いでいるのが見える。優雅に鰭を靡かせるたび、日差しを浴びて銀色に輝く鱗がきらきらと光る。
水辺には、かわいらしいカワウソが家族で遊んでいる。
彼らは水の中に飛び込み、またすぐに顔を出しては楽しそうに戯れていた。
(天国か?)
トゥレグは頭をガンと殴られたような気がした。
訪れる者に癒しと安らぎを与える、美しい緑の楽園。
それは確かに奇跡だった。
(ああ、期待してしまう)
何か起きるのではないかと。
この先に想像すらしたことのないような、輝く景色が広がっていそうな。
失ったはずの希望が、トゥレグの胸にじんわりと湧き上がってきた。




