モルフェと魔力の応用
ノエルは言った。
「もしもなんて言って過去を変えることなんかできやしないから、こういうしかないんだけどさ。俺はモルフェに魔力があってもなくても、きっとあの時、薬を使ったと思う」
ノエルの心臓の上に、猫の少し高い体温が接する。
「縁って言ってさ、人と人とは繋がってくもんなんだ。役に立つとか立たないとかじゃなくて。誰かと出会って関わったら、その人を大切にしたいだろう?」
「……別に」
「モルフェはそうかもしれない。でも俺は、この世界で俺と関わった人を少しでも大事にできたらいいなと思うんだよ」
モルフェは金色の交じった緑色の瞳をまん丸にして、ノエルを見返した。奇妙な生き物に出逢った人間のような表情だった。
「本当に、お前はぶれねぇな。反吐が出そうなくらい、圧倒的なお人好しだ」
「はは……違うとは言い切れないなぁ」
モルフェはもぞっと身をよじらせると、ノエルの腕から抜け出した。
「あー、やだやだ。主人がトロいと従者がしっかりせざるを得ないってことか。おい、クソ王子、そこどけ」
レインハルトが尾をあげて煽り始めたが、モルフェはひょいっと身を翻して、傷病人の枕元に座り込んだ。
モルフェは詠唱をしない。防衛本能が呼び覚まされて開花した能力は、攻撃や防御においてのモルフェの身を大いに助けていた。
地下の闘技場で悪趣味なショーに出され続けている間、モルフェが怪我をしなかったわけではなかった。
時に毒を塗りつけられ、時に麻痺させられ、火傷や凍傷になったこともある。
「お前らさあ、地下で生き残るってことが、結構大変だってこと知らないだろ。俺はな、連勝記録、歴代一位を譲らなかったんだぜ。どういうことか分かるか? 凄まじい数の痛みを経験してきたってことだ。あんなとこに医者はいねぇ。死んだらそれまでだ。医者も薬もなしにどうやって生き延びてきたと思ってる」モルフェはフンッと鼻を鳴らした。「これだからボンボンは甘っちょろいんだ」
魔法を使う時、モルフェは詠唱をしない。
だから、初めは彼が何をしているのか、誰も分からなかった。
ノエルには、黒猫が重病人の額に肉球をぺたっと当てたように見えた。
可愛い光景だが、どんな意味があるのだろうか。ノエルは不思議に思った。
いや、前世ではペットセラピーなどという言葉もあった。
きっと動物の持つ、癒やし効果があるのだろう。
実際に、苦しみに耐えてうめき声をあげていた女性は、穏やかな表情を浮かべ始めていた。
「気持ち良い……」
恐ろしいうめき声をあげつづけていた口から、小さなささやきが聞こえた。
ルーナが丸い耳をピクッとさせた。
「見て下さい! 傷が……!」
色白の女性の表情が、分かる。
焦げて膿んでいた肌が修復されていく。
肉球から金色の光が放たれ、女性の体にしみ込むように広がっていく。
額からゆっくりと広がった光は、まるで液体のように顔を包み込み、焼けただれた肌がゆっくりと滑らかになっていく。
次第にその光は女性の首から肩、腕へと広がり、火傷の酷い傷が次々と癒されていった。まるで時間が逆行しているかのように、彼女の体は元の健康な状態に戻っていった。
そして、光が完全に消えた。
そのとき、女性の体にはもう火傷の痕跡はなかった。
「もう、痛くない……」
彼女は不思議そうにゆっくりと目を開けた。
モルフェは手をひっこめた。
「貴方が……? 猫ちゃん……ありがとう……ありがとう……ありがとうございます……」
驚きと感謝の涙が、村長の妻の頬を伝っていく。
ルーナが村長に知らせに走って部屋を出て行った。
モルフェは静かに一度だけうなずいた。
「モルフェ、何!? 何したんだ今!?」
驚くノエルに抱き上げられて、モルフェは諦めて力を抜いた。
ひげ面のマッチョ男と猫では分が悪いのは理解しているらしい。
「状態回復魔法だ。毒・火傷・凍結くらいは治せる」
「おま……な、そんな……」
上級のヒーラーでなければそんなことはできない。
学院の保健室では毒消しや火傷の薬はあったが、魔法で治すなんてことはなかった。
「あくまでも状態を回復するだけで、減った体力を回復できるわけじゃねぇ。オバサンは傷が治っただけでまだ死にかけのままだってことだ。早くポーションなり薬草なり使った方がいいぞ」
モルフェは身をよじってノエルの腕の中から抜け出した。
ノエルは急いで、『ヒール』の呪文を唱えた。
村長の妻に手を当てると、魔力が移動した気がする。
効果があるのか定かではなくて不安だったが、村長の妻は
「ぽかぽかして気持ちが良い……」
と安らかに呟いて、そのまま寝てしまった。
うめき声はなく、すやすやと規則正しい寝息になっている。
痛みでまともに睡眠もとれていなかったのだろう。
ノエルは安堵した。
小鳥が冷静に言った。
「それができるなら、修道院で『パラライズ』をぶっ放したときに状態回復したら良かっただろう」
「おい、きいてたか? 毒・火傷・凍結くらいは治せる、と言ったんだ。麻痺は専門外だ」
「使えるのか使えないのか分からんやつだな」
「うるせーな。麻痺なんて一晩寝れば治るんだよ」
ノエルはモルフェの小さな猫の頭をゆっくり撫でた。
指先にふわふわした感触が伝わる。
嫌がるかなと思ったけれど、案外モルフェは耳を一度ピクッとさせただけでおとなしくなっていた。
「……んだよ」
「すごいな、モルフェ。お前にこんな力があったなんて知らなかったよ」
「そうかよ」
「ありがとう、モルフェ」
「それより村長に交渉しろよ。宿代と食事くらいはタダにしてもらえ」
黒猫は照れ隠しのように、ぺろりと自分の鼻先を舐めた。




