村長の妻
村長はやるせなく息を吐いた。
「ゼガルドには魔法がある。オリテには訓練された剣兵がいる。それでも、俺たちだって負けてなかった。少なくとも、この間までは……ここ、東レヴィアスは獣人の騎士団が誇りだった。彼らには彼らの矜持があって、誰一人訓練を欠かすことはなかった。強い獣人は戦力になった。昔、西と渡り合えたのも彼らの先祖のおかげだ。だが、今回ばかりは……もうダメだ。空からあんなものを打たれては、戦いどころじゃない。ジャバウォックは……あれには、獣人は勝つことなどできない」
「そんな……」ノエルは何と言えばいいのか分からなかった。
「俺たちはこれまで争いごとから遠ざかるために、長年の間この僻地で身を寄せ合って暮らしていた」
砂と岩だらけの不毛な土地。
北は氷河、南は他国。
先住民だった獣人たちは、どのような思いでこれまでを生きてきたのだろう。
ノエルの青々とした髭を見ながら、宿屋の主人は思い出話でもするかのように、少し微笑んだ。
「水のない場所に水をひき、細々と野菜や果樹を作って……協定や停戦を結び、西レヴィアスの人間ともそれなりにうまくやってきた。だが、今回ばかりは話し合うわけにはいかない。相手は言葉など通じない。魔獣だからな。さしずめ、あいつらは俺たちのことを珍しい餌とでも思っているのさ」
「もしかして、人が少ないのは……」
ノエルは嫌な予感がした。
村長は曖昧に笑った。
「全員じゃあないさ。残った奴らは騎士団と一緒に西へ行かせた」
ルーナがおずおずと尋ねた。
「そ、村長さんの、家族は……」
村長は訊かれることを分かっていたようだった。
「子どもたちはもう巣立っててな。ずいぶん前からラソとロタゾで暮らしていて無事だ。でも、俺の母……バアサンはやられたよ」
静かな部屋に村長の声が響いた。
「呆気なかった。見つけるのも3日かかったよ」
「お母さんが……」
「酷いもんだった。騎士団がいなけりゃもっと遅れてただろう。バアサンはもう死にかけてたからな。寝たきりだった。逃げることもできずに、崩れた壁にまきこまれたんだ。どうしようもなかったよ」
ノエルもルーナも何も言うことができなかった。
どんな言葉も適切ではない気がした。
「あっという間だったんだ。地響きのようなうなり声が鳴って……閃光が走って、バーンと鼓膜が破れそうな音がした。ジャバウォックは爆発的な光と熱で俺たちの『殻』を破壊した。建物は壊され、獣人たちがたくさん生き埋めになり、熱でたくさんの物が、仲間が、焼けた……外で水を汲んでいた妻も」
ルーナの顔色が変わった。
「奥さんは……」
「まだ生きてるよ。そこの、奥の部屋にいる。こんな砂漠には薬もなくて、ツバウリの汁を塗ってしのいでいるけれど……どうにも衰弱が激しくてな……」
村長はウッと言葉に詰まり、
「すまない」
と短く言った。
ノエルとルーナは村長の後ろに布で仕切られたもう一部屋があるのを見てとった。
「奥さんに会わせてもらってもいいですか? 俺は魔法が使えるんです」
「いいけれど……『ヒール』くらいでは治らないだろう。何しろ、ジャバウォックの熱風が直撃したんだ……全身すごい火傷で……」
「それでも」
ノエルはその後に続けようとした言葉を飲み込んだ。
(――最期の苦痛を和らげることはできるかもしれない)
しかし、そう口に出してしまえば、本当に目の前で村長の奥さんが死んでしまうような気がして、ノエルはグッと唾を飲み込んだ。
部屋に入ると、焼け焦げたような、大きな鯨が腐ったような、いい知れない臭いが鼻をついた。
ノエルは顔をしかめそうになるのを堪えて、様子を確認した。
中には、もうモルフェとレインハルトが静かに待っていた。
簡素な足の低いベッドに横たわった『何か』の周りを黒猫がうろついている。
「よく生きてやがる。普通死ぬぜ、こんなの」
あけすけなモルフェの言い方にも、誰も怒らなかった。
まさにその通りだった。
その人の体中には、赤黒く焼けただれた火傷が広がっていた。
皮膚は裂け、ところどころから血がにじみ出ており、焦げた衣服の破片が痛々しく残っている。呼吸は浅く、苦しそうに荒い息を吐いていた。
小さな窓から差し込む微かな昼の光が、その痛々しい顔を照らしていた。頬には涙の跡が乾いたまま残り、目はうつろで、意識は朦朧としている。手は無意識に胸元を掻きむしるように動いていたが、その指先も火傷で焼けただれ、見るも無惨だった。
レインハルトは、村長の妻の枕元に座っていた。
「どうしますか、ノエル様」
小鳥が小首を傾げる。
モルフェが言った。
「楽にしてやろうか?」
茶を淹れてやろうかというくらい、何気ない言い方だった。
ノエルの答えは一つだった。
「残りの薬を使おう。モルフェにしたのと一緒だ」
迷いはなかった。
ノエルはバックパックから緑の小瓶を取り出した。
まだ残りが二口ほど残っているはずだ。
瓶のふたを開けようとしたとき、黒猫がノエルの前にすたすたと歩いてきた。
「待て。お前は馬鹿なのか? いや、お人好しの馬鹿野郎だってのは前から知ってるが。いいか、はっきり言うが、この先も死にかけの奴がいたら薬を使う気か? 俺はお前が死にそうになったときは身代わりの盾くらいにはなってやれる。だが、今回命を救って、それがお前に何の役に立つんだ?」
「モルフェ。言い過ぎだ」
いつになく真面目なノエルの声に、モルフェは黙った。
ノエルにだって理解はできている。
オリテの秘薬はもし売るとしてもとんでもない値段がつくだろう。
それこそ、王族との取引に使えるくらい、貴重な物だ。
村長の妻を助けたところで、ノエルたちにはメリットがない。
「あのなぁモルフェ。俺たちは、役に立って欲しくってお前を生き返らせたんじゃないよ」
黒猫の首の後ろをつまんで抱き上げる。
モルフェは表情の見えない瞳をしていたが、人形のようにされるがままになっていた。




