楽しい夢
とても楽しい夢を見ていた。
懐かしい妹や弟たち、兄貴分たちと鬼ごっこをする夢だった。
スラムのごみ溜めではなくて、爽やかな空気の広がる森だった。
小鳥のさえずりも、太陽のあたたかさも、まるで本物のようだった。
腹いっぱいの食事、清潔な衣服、明日を考えなくて良い、のびのびした贅沢な遊び。
子どもたちの笑い声。
自分の吐息、腹いっぱいのご馳走。
陽の光に溶ける氷とジュース。
色とりどりの甘いお菓子。
モルフェは幸せな気持ちで夢にひたった。
(このままずっとこの時が続けばいい)
あたたかな陽光の下で永遠に幸せでいられるなら、これほどいいことはない。
モルフェは安堵して、目の前のきらびやかな飲料に手を伸ばした。
しゅわしゅわ弾ける不思議な水は、スラムにも奴隷としての生活にも決して無いものだった。
どんな味がするのだろう。
モルフェはわくわくして、宝石のように輝く透き通ったコップに手を伸ばす。
「――!」
誰かが遠い場所から叫んでいる。
うるさい。
モルフェは気にせずに、コップを傾けようとした。
が、透明なコップはそれごと雲散霧消して、影も形も無くなってしまった。
モルフェは驚いて周りを見た。
次第に共に笑っている子どもたちの顔が分からなくなってきた。
靄がかかったように白く、ぼやけていく。
笑い声も消えていく。
遠ざかる。
(待ってくれ)
モルフェは声を出そうとした。
脇腹が酷く痛む。
喉が乾いて仕方が無い。
水を飲みたい。
モルフェが右手を見ると、いつの間にか瓶を握っていた。
緑色の、モルフェの瞳と同じ色の小瓶だ。
駄目だ。
それを飲んでは駄目だ。
モルフェは声を出そうとしたが、脇腹が痛くて痛くて仕方が無い。
ゴクリと喉がなった。
水を――。
次の瞬間、モルフェは瓶の中身を口に含んでいた。
あっという間に、かつての仲間も森林も掻き消えた。
そして、砂埃にまみれた鉄臭い闘技場にいた。
これまで闘技場でやり合った相手たちが、使い終わったあとの食器のように、血に塗れて積み重なっていた。
モルフェは叫ばない。
そんなことくらいで動揺していては、ここまで生きては来れなかった。
いつの間にか奴隷の癖は、モルフェの骨の髄まで染み付いてしまっていた。
叫ぶかわりにモルフェは自分の掌に爪を立てる。
握りこぶしを握ると、誰にも聞かれることのない悲鳴が静かに肉に埋まる。
こうすれば、心臓は落ち着く。
頭は冷える。
ただ痛みだけに集中する。
どうしてそこまでして、生にしがみついているのか。自分でも分からなくなるので、モルフェはいつしか考えるのを止めたのだった。
握った掌を、何かに無理やり開かされる。
ぬるい何かを握らされる。
やめろと言いたいが口が動かない。
喉がひりつく。
誰かが叫んでいる。
「おい、――おい! 起きろッ!」
モルフェは目を開けた。
掌のぬるい何かは、紅い目の少年の細い指だった。
「あ、よかった! 起きた。めちゃくちゃうなされてたぞ。お前。大丈夫か」
紅い目の少年は、モルフェの頬を布で拭ってくれた。
そうしてようやく初めて、モルフェは自分の頬や顎や目が濡れていたことを知ったのだった。




